2016/04/21

流れに従わないという選択





キリマンジャロは高さ1万9710フィートの雪におおわれた山で、アフリカの最高峰と称される。西側の頂上はマサイ語で「ガエ・ガイ――神の館」と呼ばれている。その西側の頂上近くに、ひからびて凍りついた1頭の豹の死体がある。そんな高いところまで豹が何を求めてやってきたのか、だれも説明したものはいない



ヘミングウェイ「キリマンジャロの雪」より~




ヒョウは山を降りようとして、死んでいったのだろうか。
それとも、さらに高みへと登ろうとしていたのだろうか。



孤独でも妥協することなく真実を目指すことが
この小説のテーマである。








晩年、7割の高齢者が
「もっとチャレンジしておけばよかった」と
後悔しているようだ。



そのデータの信憑性云々は抜きにするとして、
後悔というタチの悪い病気にかかってしまえば
一生それと付き合わないといけないだろう。



なるほど、昔の人はよく言ったものだ。
「後悔先に立たず」。




発見はいつも、手遅れになったときである。






とは言え、「チャレンジ」という言葉は実に抽象的である。
抽象的だからこそ、人を惑わせるのだろう。



「何かしなくては」と人を焦らせ、駆り立たせる。
ネットではそんなおかしな観念に捉われた人ばかりだ。



後悔とはそんな無鉄砲な経験の是非に
くっついているものではなく、もっと別の場所にある。



それが時代の流れというものだろう。
知らず知らずのうちに、その流れに従属しているのだ。



それは一部の無知と野心を持った人たちの
無意識的な団結ではない。



そうであれば、そいつらさえいなければ、その流れが
起こらないだろうという、都合のよい歴史観となるが、
そんな単純なものではない。



誰が言い出したか特定できないからこそ、
時代に翻弄された人間は誰を責めていいか分からないのだ。



そんな「のっぺらぼう」に自分の精神や人生を
明け渡してしまったことを、晩年悔いるのではないか。



自分で判断して、自分の理想に燃えることの
出来ない人はスローガンとしての理想が要るが、


自分でものを見て明確な判断を下せる人には
スローガンとしての理想などは要らない。


若しも理想がスローガンに過ぎないのならば、
理想なんか全然持たない方がいい。



~小林秀雄「歴史の魂」~



いつの時代であっても、真の確信というものを
掴えることができたのはごく一部、無私を得た人だけだろう。



若い頃に掴めた人など一人もいやしない。
小林が「青年などの手に合う仕事ではない」と言ったのも
多分に、そういうことだ。



故に「精神の不安は青年の特権である」
という逆説が成立する。



途中経過で、不安になるのは当たり前だろう、と。




☞☞



問題はその不安とどこまで格闘するか。
キリマンジャロの豹よろしく、それは決断の有無である。



自意識は、中途半端な確信に客観性を持たせ、
おかしな場所を頂上だと言うが、そんなもの嘘だ。



理性の海を泳いでいる間は、
自分が泳いでいるということがわからない。
歴史を持ち出さなくとも、自己の経験を
少し振り返れば容易に分かることだ。



便利に解釈した思想のその便利さが
新たな追及を麻痺させ、



やがて硬直した思想が極まることで、
思想そのものが形骸化する。



止めれば腐るか石になる。
今まで、その過程を免れた思想などはない。







巷ではつまらん流れが蔓延しているようだが、
僕はそんな「流れ」なんてものに従う気はない。




むしろ疑い、抗い、抵抗する。
大人しく従うほど、人間はできちゃいない。



その意味では利口で賢い人ほど、適応能力が高い。
しかし、そんな人には人間味や素っ気がない。



まるで味や素っ気をなくす為に賢くなっているようだ。
僕は後悔したくないから、そんな小利口な人間になりたくないな。




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