2017/09/25

正義と言うペンを握れば





教義や経典を持たないと言われる神道にも
持とうとした、持っていた時代がありました。


例えば「一霊四魂」なんてそうですね。
人の心は天と繋がっていて(一霊・直霊)、
天上から下された四魂を統括し霊止(ひと)となって宿っている、と。


古神道の霊魂観だと言われますが、さてどうだか。
多分に当時の神道は仏教から主権を取り戻したいと
強く望んでいたんでしょう。だからこそ儒仏(教)
勢力に対抗する為に理論武装、教義を作り出した気がします。


ちなみにその際、実現したのは神ではなく「権現」でした。
まあ、そんなものでしょう。




仏教は日本には不要であると神道が言い、
いいや、仏教こそ真理だと仏教が返す。


その排他性はいかがなものかと儒教が諭し、
君らには愛が無いよと聖書が割り込む。


その愛は苦だと仏教が説き、苦は楽の種と
知るべしと儒学が返し、それらは全てからごころだと古神道が説く。



そうやって互いに批判できる場は
ある意味「自由」ではあるけれど
主権論争は「わたし」という個別的な
生き方を主張するだけで止まらない時がありますね。
論争が熱くなればやがて本道から外れる人も現れます。


江戸の百家争鳴然り。
きっと人間は「正しさ」を自分の中だけに
留められないんでしょうね。




「後記」


上記のような需仏神道を一つの循環として
体系化した人がいますね。吉田神道の始祖、吉田兼俱です。


兼俱は仏法を万法の花実、儒教を万法の枝葉、
そして神道を万法の根本とした根本枝葉花実を説きました。


日本の神道が根っこであってそこから儒教が
枝葉となり、花実である仏教が咲く。
その実が大地へ落ち、また根本である神道へ戻る、と。


そんな三教の繋がりと循環を描いたプロセス
なんですが、結局何が主張されているかと言えば
根である神道が根本的に優位だという、主張なんですよね。



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