2017/08/17

自己中心



岡は「自己が一応何か分かるには
だいたい八百年かかるのではないか」と言っていた。 

これには小林も同じ意見だったようで
簡単に言える自己など自己ではないと言う。


だよなぁ(゜゜)
今のおいらにゃー無理だ。


自分を語ることは一番簡単そうで、一番難しいね。




万法すすみて自己を修証するは悟りなり 


正法眼蔵では自分の力、自力で世界の
真実を掴むというこの「得ようとする意思
こそ迷いだと言う。ヘーゲルの弁証法のように
どれだけ人間が天に近づこうと思っても遠ざかるのだ、と。


そうではなく世界の方がむこうからやってきて
そこに自己が取り込まれ一体化する、と。つまり
「真実を掴みたい」という個の意思をも捨て去った
無心にならないと見えてこないということだ。


しかし「捨てることで掴んでやる」
という意思がある。ここ、すごい大事な部分ね。
つまり自分が掴もうとしていることさえ
思わない自分。この状態が(たぶん)「自己」だろう。


✍✍✍


他力本願の念仏と自力本願の禅はそのどちらも
必要であって、矛盾したものを同一することで
天(神)と人とは主客として対立するのではなく
「我(主)は天で天(客)は我」という世界観へ一転する。



西田の絶対矛盾然り。
「自己自身が見られなくなる時、つまり自己を
無にして自己自身を限定する時、そこに我々は
真の自己を見るのである」と言うのもそのような意味を表す。



だから冒頭の八百年なんだろうね。
だって「何かが分かる」という事自体が
理性による働きなのに「それを使っちゃダメ」
って言ってるわけだから。





我々は穴の開いた杓子しか持ってない。
それを使ってもバケツに水を
満タンにすることは出来ない。


そりゃ分かる。
でも穴の開いた杓子をも含めた自分で
バケツを満タンにしないといけないわけだ。



何ちゅう無理ゲーだよ(笑)

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