2016/07/26

自己批判の精神





戦後最悪と言われる今回の相模原の殺傷事件、
正直、映画のようで実感が沸きません。



人間の恨みとは、歪んだ正義の恐ろしさとは
こうも人を鬼にするのか。



少なくとも真っ当な人間が出来るものではありませんね。
銃のように引き金を引くだけとは違うのですから。







今後、社会学者達は社会的な構造から
悪意の原因を導き出してくるでしょう。



心理学者は人間の精神から、
哲学者は悪意を持ち始める思考プロセスから
「犯行の動機」ってやつを説明するでしょう。



しかしそんなものが分かって、何だと言うのか。
そんなものを犯人にして、免罪符にしてどうすると言うのか。



人の心の中に悪意が出現してしまうこと自体
無くすことはできない。大事なのはその前提の認識ではないでしょうか。



それは暴力性を肯定するのではなく、
自身の中に沸き起こった悪意を制御し、
葛藤し、戦い続けなくてはいけないという、当たり前の事実認識です。



こうした努力のうちにこそ人間は
時代や環境から自由になるのであって、
社会環境がどうであろうと、怨恨があろうとなかろうと、
やらない人はやらない。



犯罪者はその悪意に負けただけではないか。



その自らの悪を認める事の恐怖から、
何か他のもののせいにしているのではないか。



☞☞



「我が心の良くて殺さぬにはあらず」と
親鸞はすべては「縁起のせい」だと説き、

スピリチュアリズムはこの世界に善も悪も存在しないと言います。



僕はそんな都合の良い答えを信じませんね。
そんなもの、無条件に自分を肯定させるだけでしょう。



いくら優れた理論であったとしても、そこに
自己批判精神が欠如しているのであれば、
その時点で間違いだと思ってます。





「後記」



今回のような事件にこそ発展しないけれど、
悪意を持ち続ける人は、自己正当化しやすくなりがちですね。



多分に、自分という限られた視点や価値観から
客観的事実を導けるという傲慢性からきている。



僕が真理や真実を簡単に口に出す人を嫌うのは
そういった精神が見え隠れしているからかもしれません。





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