2015/11/23

所感



テロをきっかけに
世界がキナ臭くなってきた。
そう感じている方は少なくないだろう。


夫婦喧嘩は犬も喰わぬが、人類誕生以来
懲りずにドンパチやっているところを見ると、


我々にはそれを好んで喰おうとする
精神があると言っても過言ではない。



今まで水面下に隠れていたものが
「待ってました」とばかりに一斉に
噴き出したかのような今回の展開だが、



これについて言及する気はない。
事後でいくらでも明らかになるだろう。




注目しているのは「どこで手打ちにするのか」。
それだけである。



☞☞☞



恣意的な流れは、例え派生元が小さくても、
時として激流になる事がよくある。



そして一度激流になってしまえば、
抗うことができなくなるほど強烈な
イデオロギーが生まれる場合もあるだろう。



冷静に考えると「ありえない」ようなことでも
調子に乗せ、看過される。



個人的にそれが一番怖い。
こんな時は境界線へと逃げ込むのが一番良い。



実にうまい




争いの根幹は単なるナワバリ、シマ争いである。



誰だって居場所がなければ心地は悪い。
生きるには安全領域は必要なのは当然だ。
(だから僕は鎖国を肯定する)



故に、それを一方的に邪魔されれば
必死に抵抗もするだろう。



動物だって命をかけてでも守るじゃないか。
「心地」が生存欲求に直結している以上、
それは「ごく普通の反応」である。




ただ、我々は畜生か?
そうじゃないだろう。



否、実際はそうなのかもしれない。



☞☞



こうは書いているけれど、
同時に「書いて一体何になる」という気持ちも起きている。



後は知らぬ、好きにすればいい。
そんな無責任な自分が今の世界を肯定している。



人情の機微に通じた戦時中の先人たちは
一体どんな気持ちだったのだろうか。



絶対的に否定しながらも、希望を見出し
その環境を受け入れたのだろうか。




もしかして、いつの時代も環境というものは
「居心地が悪い」ものであって、



そこから心地よい居場所を作ることを
我々は強制的に課せられているのではないだろうか。







泥水が濃ければ濃いほど、大輪の花を
咲かせる蓮は、仏教の象徴でもある。



なるほど、
決して綺麗とは呼べない泥水に根を張りながら、
ぷかり、ぷかりと水面に浮かんでいる。








眼の下に大虚庵の落款と伊年の円印が
仲良く並んでいる。


己を失わずに他人と協力する幸福、
和して同じない友情の幸福、そんな事を、考える。



この歌巻の表現しているものは、
極まるところ、幸福というものの秘密ではないだろうか。



この考えは、光の様に僕を照らしたが、すぐ消えた。
恐らくそれは、僕の不幸を照らし出したが為である。



幸福は、己れを主張しようともしないし、
他人を挑発しようともしない。



言わば、無言の智慧であろうが、
そういうものも亦、大思想であると考える事が、
現代では、何んと難しい事になったか。




~「モオツァルト、無常という事」より~





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