2015/09/13

直観的ということ




こんばんわ、坂口です(゜゜)



最近、あるブログを見てると
僕の弥栄概念にかなり近いことを
書いてたんで驚きました。



しかも、最近よくある体験から発していない
情報の寄せ集めではなく、全人的なもののようで。



すごいなあ。
僕の葛藤を直観で軽く飛び超えてる。
(だからシンプルな表現なんでしょう)




うーん、お見事。
多分に、精神の痒いところに直接
手が届く人なんでしょうな。




注目したのは、そこにある「あいだ」。



多分に、正確に「描くことができない」のでしょう。
(ここも同じかもしれませんね)




ということで、今日は僕流の「直観」でも。。。。









さて、ベルグソンでいう直観は「直接に観ること」。
観察者ではなく「対象そのものになって観る」という
通常と逆の立場である。




例えば過去に書いた作品を眺めたり、読むといった
「観察側(客体)として相手を理解する」のではなく、
対象(書き手)と一体化し、そこから眺めるということ。



外から眺めるのではなく、内から捉え捕まえる、
相対的に知るのではなく、絶対的な認識だといえるだろう。



ベルグソンに傾倒した小林秀雄の批評方法は
まさにこの「同一化」からの視点であって、



本居宣長の視点、フロイトの視点、ゴッホの視点
「そのもの」になり、そこから批判するという方法を
小林は確立したのだ。



☞☞



逆に観察とは分析であって、帰納的科学であるが、
理性や知性では、実在の周辺しかわからない。



なぜなら、目に見える記号(言葉や数字)とは
「視覚」という部分に頼っているだけであって、
本質(実在)の一部しか示すことができないのだから。



植物の種をいくら細かく分析しても
「なぜ芽が出て、成長するのか」は分からない。
それと同じことだろう。


ロックやヒュームやのような経験主義も
主観的な経験や体験ではなく、客観的な「もの」として
観察しているのであって、直観(経験)ではない。



ベルクソンの視点は「もの」ではなく「こと」にある。
これが有機体哲学と言われる所以である。



☞☞☞



有機体哲学では時間もまた、時計などで
客観的に計測されるものではなく、意識によって
持続的に直接働きかける性質だという。



過去は現在と切り離されているのではなく、
全体の部分として持続している、ということだ。



そこに直観と持続の相互浸透がある。
ベルグソンはこれを「純粋持続」と呼んだ。



(ここは長くなるので割愛するが)
伝統や本来の保守も、この構造だと言える。



歴史を丸暗記して学んだところで、当然それは
見つけることはできず、テクストにはならない。



対象を真に理解するのは頭ではなく、
対象を真に説明できるのは言葉ではなく、



それを習慣的に使用する「わたし」を
限りなくゼロにすることによって、
対象(実在)が入る「余白」から自然派生している。



考えて見れば、ビジネスを始め、
あらゆるアイデアというものはこういった
理性を超えた「余白」から派生するのではないだろうか。



ある日突然、正解が「降りてくる」。
むしろ、それによって直観は直観たらしめるのだ。



古来の巫女が内部に虚無を所有することで、
神懸り的な存在となるのも、そう。
まさに内部の内部からの派生、超克であろう。



それを理屈や根拠などで説明できるわけがない。
言葉で表現しようとすると、途端に観察者となり
本質は消えてしまうのだから当然である。



逆を言えば、それが見えている人にとって
外部(テクスト)はひとつの素材に過ぎない。



神しかり、アイデアしかり、ノウハウしかり、
見えない人が外部を切実に希求するのだ。







ただ、これは「見えるもの」と「見えないもの」、
主体と客体の二元論ではない。



日本流の神髄は三元論、ここに「間(あいだ)」を観る。
「見えるが見えず、見えないが見える」状態であり、
それは円環の精神によって支えられる。



例えば光は粒子(見える)であり波(見えない)が
これもまた、我々の認識が境界線となってる(はず)だ。




そういえば最近、宇宙は認識されるまで存在しないことが
オーストラリアの量子力学研究で明らかになった。



量子論は時間も空間もない「無(真空)」は、
全く何も存在しない空間ではなく「揺らぎの空間」である。



そんな多様で振動された揺らぎの波に満ちている状態が
「無」であって、そこから認識によって「有」へ成るということは、



成せばそのように成り、なさねばそのように成るという
存在と非存在の「あいだ」を我々が決定しているのではないだろうか。



全てがあって、全てがないというパラドクス。
意識と無意識の境界線、間に生まれた我々である。







これを固定した形式で説明することは不可能だ。
そして説明できないこととは、コントロールできないことと同義である。




冒頭に書いた方も、同じような
感覚に陥ってるんじゃないかしらん。




まあ、彼女なら飛び越えそうですけどね(゜゜)




上手に語れる経験なぞは、経験でもなんでもない。
はっきりと語れる自己などは、自己でもなんでもない。

~小林秀雄~



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