2015/09/20

平和ボケって、ダメなのかな




以前、政治は祭りであった。
ここで言う祭りとは奉仕のことを指す。



祭事と政事は奉仕する対象が違うだけであり、
どちらも奉仕事(まつり)であることには変わらない。
本居宣長は、古事記からそれを見出した。



祭事では神に奉仕し、政治(政事)は
天皇に奉仕する。しかし神も天皇も直接的に
何かをするわけではないということだ。



そこで祭り上げる者(今でいう安倍)が
その実務を行う。古来、この国はそんな二重構造の
統治国家である。



これは株式会社も同じ構造。
株主は直接、経営に手を出すことはないが、
経営者を解雇できることから、最上位に位置するといえるだろう。



この構造はあらゆる分野の土台になっている。
企業だけでなく、学校(学問)や軍隊もまた同様だ。



いわば問答無用の「構造体系」であるが、
それは権力という満ち足りることを知らない
怪物を作ってしまいがちである。



僕はここにリゾームという一石を投じている。
それは脱構造ではなく、反構造でもないのだが、



上記のような怪物たちからすれば
脱構造であり、反構造であると言えるだろう。




さて、ブログでは政治のことはあまり
触れないようにしようと思っていたのだが、
今回少しだけ触れてみたいと思う。









先日、安保法が成立したようだ。
各新聞を一通り見たが、内容の二極化から
メディア構造が手に取るようにわかる。



読売と朝日と産経は賛成派、
これら三社の記事は(いつもそうだが)、
非常に恣意的な書き方をしているので、
見るだけで悪寒がする。



かといって、他紙が良いとも言えない。
これは自民より民主が良いと言えないのと同じことだ。



そもそもが不正(選挙)である以上、
この国の政治はショーであり、パフォーマンスである。



いくらデモをやろうと、選挙で信を問おうと、
結果が我々の意図する方向に向かうことはないだろう。



雑草を抜いたとしても、根が残ればまた生える。
異常なものが異常であることには変わらない。



「民主主義なら選挙(多数決)で決めよ」
それが民意だという意見は一見ごもっともだが、



こちとらその制度自体、そもそもの前提が
民意の外で作られているのだ、と言っているのだ。



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さて、見れば集団的自衛権を行使した国は
もれなく動乱やテロ、戦争が起こっている。



ベトナムしかり、ニカラグアしかり。
ハンガリー動乱やプラハの春も同様である。



これは国民を助けるために作られたものではない。
権力者を擁護する為、権力者が自ら作ったものである。



この背景は長くなるので割愛するが、
やがて「徴兵制も仕方ない」と言い始める可能性が高い。



法を変えたのも、そのための口実である。
変えてしまえば、きっかけなどいくらでも作れるのだ。





なぜ、これほどまでにグローバル化(統一)を
盲信してしまうのだろうか。



レヴィ・ストロースは、多様な文化が
混合すれば純粋な種としての生存能力が
低下するので、多様な文化の「間」の距離を取った
全体最適としての多様性こそ、重要だと説いている。




端的に言えば日本は日本の伝統文化、
アメリカはアメリカの伝統文化を維持しながら、
共存するという「統合」への道である。




和すれど同じる必要などない。
僕がやってる事業のレーゾン・デートルもここにある。




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よく、失われた20年というが、
失われたものとは、いったい何だろうか。



経済だろうか?国益だろうか?
否、本質的に失われたのは我々の精神である。




それは以前書いたように切実の切実さ。




それを喰らい、死にかけた歴史があるからこそ、
我々は直接食べることなく、それが「毒キノコ」だと
認識することができていた。



どんな理由であれ、社会背景であれ食べない。
ここに問答など無用なのではないだろうか。




平和ボケ、良いではないか。
戦争狂いより、100倍ましではないか。




理想論が批判される理由は
そこへ向かう具体案が示されないからであるが、



逆を言えば、それがあれば良いだけの話である。



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