2015/09/11

オタクのちから





以前、社会的に閉じられた製作者が
オタクであり、開かれたものが経営者だと書きました。



個人的にはそのオタクパワー(笑)を
社会的流れに乗せることが大事だと思ってまして、
そこで初めて価値は価値たらしめるのだと思ってます。




オタクパワーと書くと変ですね(- -)
unreve的に言えば、自己中心・内部派生な行為
順番はまず「自分が先」です。




例えば、お父さんが日曜大工で作った椅子や、
お母さんの「今日はこれをやってみようかしら」で
作る夕飯自体は社会的には独立していますが、
それは見返りも報酬もない、純粋な行為と言えますよね。



そこで、その作った椅子に誰かが座ったり、
誰かが食べることで初めて、その行為は
社会的行為の中に組み入れられます。



つまり椅子や夕飯を「作りたい」という、
内から発するエネルギーが、「座る・食べる」という外部と
相互に結びついているんですね。



では、ここに「強制」が入ってしまったり
権力行使側の「命令」によって成立してしまうと、どうなるか?




今日はそんな所から。。。。









さて、今の資本主義では内から発する「する力」が
強制力を持つ「させる力」の管理下に置かれ、
歪みが起こっています。



これは社会主義のように国有化されても同じこと。
個々の自然派生的な「行為」が「強制力」に
従属している構図はまったく変わりません。




好きなことを商売にするのが
難しいという理由は、まさにここにあるわけで。



例えば絵を描くことが好きで
漫画家になった、歌が好きで歌手になるのは
ある意味、夢が叶ったようですが、



編集者に締切や内容の変更を強制されたり、
常に新曲をリリースしなけれはいけない環境になると、
途端に内部の「する力」が失われてしまう。



もちろん、「届けたい」が「する力」であれば
問題ないでしょうが、そこまでの没頭(無死)の
境地に至る人は稀でしょう。



上手なアーティストは活動を休止したり、
一時解散して個人のやりたいことをやってますが、
それでバランスを取っているのかもしれません。



小林が本居宣長を完成させるまで
要した歳月は実に11年。



これは早い遅いの問題ではなく、
自らの拍子(ペース)でなければ、彼(本居)を
捕まえることができなかったと覚悟してたのでしょう。




☞☞


閑話休題
消費社会において個人の「したい力」は
強制力を持つ「させる力」負けてしまいます。



歴史を見ても、この強制力(させる)の
取り合い合戦ばかりが繰り返されていますが、
これは間違った自由への道だといえるでしょう。



革命だってそう、それをやったところで
権力が消えるわけはなく、「させる力」が移行しただけ。
マルクーゼよろしく、それは「抑圧からの解放」にすぎません。



その結果、解放の後が「引き受ける側」に
自動的になってしまう、と。
ミイラ取りがミイラになる原理がここにあります。




「これからは女性原理の時代だ」とか、
「女性性を解放せよ」とか言われてますけど、



抑圧の「反」が自己崩壊を内包している以上、
倒した時点で、倒した相手と同じになるのは
必然じゃないかな。









さて、unreveのリゾーム派生は既存の組織の
アンチテーゼですが、それ自体が独立して存在できるなど思ってません。



そんなものを理念にしてしまうと痛い目に見る。
自分たちの掲げる道こそ、正しいのだと
思い込めば思い込むほど、です。



素朴に考えればわかりますが、
強制的な観念からの脱出を
同じ強制的な観念で実現できるわけありません。
コーチングしかり、コミットしかり。



目には目を使ってしまうのが、
革命であり、安保であって、それは排除と
選民的な優越思考によって支えられてしまう。



セミナーも似たようなもので、自己実現や
自己解放を求めてもそこに恣意的な「強制力」が働けば
同じ輪の中。ただ向きだけが変わっているのです。



僕はカリスマや教祖的な経営者が信者を
作ろうとしているのが死ぬほど嫌いなんですが、
それは上記と同じことやってるから。



ある概念、ある認識を持っている人が
それを持っていない者に対し、啓蒙だと称し
教育指導した時点で、すでに関係性は固定されてしまう。



結果、その概念、認識を持つ人の情報の
「強制力」は「共有認識」として、ますます正当化され、
権力を持ち出してくるでしょう。



つまり、内部にいると本来の場の形成ではなく
「空気(強制)的」な場になってしまうんですね。



自分の個性を認識した人にはそんな
同調圧力の空気など通用しませんし、
すぐさま境界線に逃げ込むでしょうが



正解探しをやってる人は、その場から
離れられず、だんだん息苦しさが常態化してしまう。



もっとその「息苦しく感じる自分」を
大事にしてもいいんじゃないかしらん。



いくら合わせようと努力しても
どうしても合わないものが個性ですからね。






閑話休題
長くなったのでまとめます。



リゾーム派生が「協業」や「共創」の原理を
守っているのは、こういった背景から。



普段の、日常の、リアルの生活から生まれる
声を出発点にする、つまり「設計書なし」からのスタートです。



それを主体的に考え(自立)、
責任を取り進む(自律)ことで、創造性が開花するのではないか。



僕はそう思ってます(゜゜)



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