2015/09/04

仮面の下の下





ニーチェは人が書く行為とは
内部にある「本来」を隠すためだと言っている。




すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。
すべての意見はまた一つの隠れ家であり、
すべてのことばはまた一つの仮面である。
「善悪の彼岸」より。




個人の内部で「思考されたもの」と、外部で
「語られたもの、書かれたもの」は別問題ということだ。



ここを突っ込むのは多少野暮なことではあるが、
それは「振る舞い」によって示される場合が多い。



語る言葉ではなく、その人の行為によって
本質が分かるというのは、こういったことだろう。



なるほど、他者は自分で見ることのできない、
その「背中を見る」のだ。








ちなみに坂口安吾は「碁の打ち方」が
その人の性格を現しているという。



例えば、川端康成や三木清は
その思想や文学(文章)こそ紳士的だが、



碁を指す時には腕力でねじ伏せる喧嘩腰であり、
とても行儀が悪いものだと。



故に、その文学も腕力型の独断家という
視点で読んだ方が、正しいというのだ。




僕は碁を打ったことがないが、
確かに麻雀や将棋などを打っていると
その人の癖というか、性質が垣間見える。




「根幹(あり方)は細部(やり方)に宿る」ということだろう。



ちなみにだが、独断家で有名な小林秀雄は
定石ともいえる素直な碁を打っていたようだ。



実に行儀よく、綺麗に負ける、と。
安吾が小林を批判しながらも尊敬していたのは、
この内的な性格が文章よりも先に来たのかもしれない。



☞☞




これは現代で言う「ハンドルを握れば人が変わる」
と同じようなものだと言える。



普通に考えれば分かることだが、
人の性格がそんなに簡単に変わるわけがない。
それが「その人の本来」、もしくは「側面」だろう。



言葉ではいくらでも隠せるが、行為自体は
いつまでも装うことはできない。
長く付き合ってくるに従い、分かってくるもの。



逆を言えば「ネット内」だけで交わされる
文字だけの付き合いであれば、
十中八九、お互いは幻想の中、作られているだろう。




僕はそんな幻想遊びは好きではないのだが、
「思ったままのことを書いているな」という
ブログを発見するとつい、好んで見てしまう。



もちろん、それと同時に文章に隠された
「思想されたもの」までも見ようとする、とてもイタイ奴であるが(笑)





単純に、現代社会で裏を切らないような
誠実な人がいると「思える」のは嬉しいことだ。




それが(勝手な思い込みであっても)
文章から「素朴なその人」が伝わってくると
心が温かくなる。



今のところ、そんな数名の方のブログを見るのが
毎日の楽しみである。




「後記」


ちなみに最近、この人のブログにハマってます(笑)





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