2017/02/10

堕落には限界がある



こんばんわ、坂口です(゜-゜)
今週はめっさ寒くなるみたいですね💦


ただ、あちこちには春の訪れが。
僕の好きな春、青春の季節ですわ(笑)



すぐ傍にあるものを「待ち遠しく」感じるって、悪くないですね。






さて、今日はブログに何度も登場している
坂口安吾について。探せばもっとあるでしょうが
小林秀雄と同じくらい登場してますな(゜゜)



過去記事①
過去記事②
過去記事③
過去記事④
※他にもあったけどアメブロから移転する際
消えてるようです・・



彼のテーマは時代を超えたもの。
特に小林との対比はある種の宿命すら感じます。



今もまた、似たようなことをやって
似たようなことで悩み、似たような結末に
向かっているのを見ると、


人間の元来は何も変わることはなく、
変わったのは世間の方だな、と感じますね。


戦争に負けたから堕ちるのではない。人間だから堕ちるのだ。



氏は堕落について「分析」をしてるわけじゃありません。


心理学や哲学のような考え方ではなく
嘘偽りのない自分の心が人間の本質を
堕落だと直感しているんですね。
こういった近代のアンチテーゼを唱えた
人はやがて「無頼派」と呼ばれ、安吾を始め
太宰や石川淳、織田作之助などがいます。


今なら中村うさぎさんが近いかも(゜゜)
中島義道しかり。ニヒリズムを根幹とした
「今を生きる」思想です。


消費した結果を原稿にして金を得る。
その金を消費して、さらにそれを原稿にと、
不可思議(というか破天荒)な循環を
彼女(彼)は繰り返していってますが、


それは「やりたいことをやっているだけ」
であって、そんな自分のしたい事を見出し
実行している人を「他人は」堕落と呼んでるだけだ、と。


なるほど。
悪意がない分救いがない。
まあ、それ(救いがないこと)が
彼(彼女ら)の答えだったようですけどね。



「どうせすべては無に還るのだから」と。



でも「どうせいつかは死ぬのだから」と
いう理由で、自殺する人なんているのかしらん。


ここに僕は論理の破綻を見るのですが、
みなさんはどう思われるでしょうか(゜゜)




閑話休題。
安吾もそれがわかってたようで、
堕落しながらもその実、堕落と決着を付けていました。


人間の堕落の限界も実は案外、
その程度でしか有り得ない。   
人は無限に墜ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。


誠実に堕落(?)したからこそ
この言葉に厚みがありますね。


つまり人は完璧に落ちきることはできない。


あらゆる自由が許された時に初めて、
人は自らの限界とその不自由さに気づくと
いう、顛倒の真。


その位置から逆説的に「真善美」という
欺瞞に溺れやすい人間の性質や
それに迎合して自らは何も考えない
という日本人の「悪習」を暴いたんですね。


✍✍✍


美も醜も極点というのは同じ輪の中、
妙な悲しみが付きまとうもの。
多分にそこには揺り戻しの運命が
内包されているからかもしれません。


どちらも極へ傾けば不幸になる。
故に本来の学問はその「限度の発見」、
個人的にそう思ってます。



「後記」


ちなみに限度や加減と書くと
「幸福への志向性にも限界があるのか」
と疑問に思う人もいるかもしれません。
まっとうな欲望を秩序の犠牲にしているだけじゃないか、と。


結論から言えばそれは「NO」。


ここは長くなるのでまたの機会にしますが、
僕が好きな岡本太郎さんは幸福を嫌い、
以下のように定義してますよ(゜-゜)



僕は「幸福反対論者」だ。
幸福というのは、自分につらいことや
心配なことが何もなくて、ぬくぬくと、
安全な状態をいうんだ。


ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。
僕は幸福という言葉は大嫌いだ。


僕はその代わりに「歓喜」という言葉を使う。


危険なこと、つらいこと、
つまり死と対決するとき、人間は燃え上がる。


それは生きがいであり、そのとき
湧き起こるのが幸せではなくて「歓喜」なんだ。





仕事に創造と歓喜を。





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