カナダの評論家である
ノースロップ・フライは教育の目的を
「平凡な社会に適応しない人間をつくる事だ」と言います。
非凡性の習得は「自分勝手」の
免罪符ではなく、「独自の問いを持つこと」。
社会性を持った我々は共存の枠から
逃れることはできない以上、多様な社会には
「共有地」もまた必要だと思っています。
例えるなら、垣根のような、庭のようなもの。
以前「学びの庭」と言われていましたが、
それは何かを行う為の神聖な場所であるという
意味が込められていたのではないでしょうか。
外部と内部を繋ぐ、境界線の「庭(は)」に
「自然」を取り入れているのは
空間の概念が非自己にあるからでしょう。
これが堀や塀といった人工的な境界線では
異質を排除する城壁となってしまいます。
庭先(場)で起こる事象は異質である以上、
攻撃するときもある。
そんな時、この自然領域は
防壁のような役割を持ち、逆に内部を
豊かにする異質である場合は間口を開き、
受け入れる、と。まるで人体の持つ免疫のような「非」の構造のようです。
空間の概念が非自己にあるからでしょう。
これが堀や塀といった人工的な境界線では
異質を排除する城壁となってしまいます。
庭先(場)で起こる事象は異質である以上、
攻撃するときもある。
そんな時、この自然領域は
防壁のような役割を持ち、逆に内部を
豊かにする異質である場合は間口を開き、
受け入れる、と。まるで人体の持つ免疫のような「非」の構造のようです。
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