2016/10/25

無私の領域観



カナダの評論家である
ノースロップ・フライは教育の目的を
「平凡な社会に適応しない人間をつくる事だ」と言います。




非凡性の習得は「自分勝手」の
免罪符ではなく、「独自の問いを持つこと」。
社会性を持った我々は共存の枠から
逃れることはできない以上、多様な社会には
「共有地」もまた必要だと思っています。
例えるなら、垣根のような、庭のようなもの。





以前「学びの庭」と言われていましたが、
それは何かを行う為の神聖な場所であるという
意味が込められていたのではないでしょうか。
外部と内部を繋ぐ、境界線の「庭(は)」に
「自然」を取り入れているのは
空間の概念が非自己にあるからでしょう。



これが堀や塀といった人工的な境界線では
異質を排除する城壁となってしまいます。












庭先(場)で起こる事象は異質である以上、
攻撃するときもある。



そんな時、この自然領域は
防壁のような役割を持ち、逆に内部を
豊かにする異質である場合は間口を開き、
受け入れる、と。まるで人体の持つ免疫のような「非」の構造のようです。










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