2015/03/19

そもそも自由論2



前回に引き続き
「そもそも自由論」、二回目です。





さて、他人を侵害してしまう行為は
自由ではない、と書きました。



こう書くと
「じゃあずっと我慢しないといけないのか」とか
「そんなもの、ただの妥協だろ」とか思うかもしれません。



しかし、そこには前提として自由がある。
それは「自分で決定できる」ということですよね。








例えば結婚なんて、まさに
自らの決定によって束縛を受け容れることです。



「束縛は嫌だ」と独身を選ぶのは
「自らに由る」結果でしょうし、



「孤独は嫌だ」と結婚しているのも
まさに自らに由るものでしょう。



仮に、そこで結婚生活が原因で
苦しい思いをしたとしても、



自らの意志で選び、別れなければ
それも自由の一つなのは間違いありません。
逆もまたしかり。



これを多くの人が嫌がるか
避けようとしてるわけです。
(もしくは都合良い人(環境)を求める)




小林秀雄は「無責任な人が非常に増えた」と
講演で言ってましたが、まさにそういうことでしょう。



自分で自由に決めているのに
我慢もしないし、責任も取りたくない。



だからこれだけハウツーが溢れているんです。
「どうしたらいいですか?」と。



☞ ☞


ちょっと厳しいモノ言いですが、
本来、世界は自由で溢れまくっています。



ただ、自分軸がない人からすれば
「不自由で不条理な世界」に見えるんですね。



自からに由るための「自ら」がない以上、
「不自由」なのは、当然と言えば当然です。




正解・不正解を決めるのは自分、
それを見極めるのも自分、




そして(もっとも重要なのは)
それは「自分の決定意思の結果」に過ぎない。



自由は内部派生であり自己中心的な
決定意思の開放と肯定にすぎませんから、



やってる事を正しいと「思うこと」は良いでしょうが、
やってる事を「これこそ、普遍的な真理だ」というのは
単なる独善的な価値観の押しつけなんですね。



だから個としての他人を認め、
個としての自分を認める為の「場の形成」が必須なんです。




☞ ☞ ☞ 



つい、unreveの理念や自立と自律の
教育研修の一部をご紹介したんですが(笑)、



自由意思というものはすなわち
自己中心(内部)の規律に沿った意志の確立のこと。




故に、加盟店がFCにおいて自由になるには、
そんな自己の内面性の規律が問われるのです。



つまり自由な関係性には前提として
自らを律する規律が存在するのであって、
それは外部から強制することはできません。



現在、やれ道徳やらコンプライアンス(法令遵守)やら
言われてますが、外部派生である以上、あまり効果はないでしょう。



集団、ことさら組織においては
この内部規律によってようやく(自由が)始まるのです。




そして、その根幹にあるのは
精神に他ならないんですね。




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