2018/04/25

歪んだ愛



嘘はつかなくても悪い事は出来る。
もし嘘発見機に止まらず、これが
人間観察装置として、例えば閻魔の
持っている照魔鏡のような性能を
備えるに至ったならどうなるだろうか。


この威力に屈服しない人間はいなくなる
だろう。誰にも悪い事は出来なくなる
だろうがその理由はただ為ようにも出来ない
からに過ぎず、良心を持つ事は誰にも無意味な事になろう。


人間の外部からの観察がそれほど完壁な
機械ならばその性能は理論上人間の
性質を外部から変え得る性能でなければならない筈である。



それなら人間を威圧する手間を省いて
人間を皆善人に変えればよい。そうすれば彼等が
もはや人間ではない事だけははっきりわかるだろう。 



私は、徒らな空想をしているのではない。
人間の良心に外部から近づく道はない。 
無理にも近づこうとすれば良心は消えてしまう。


これはいかにも不思議な事ではないか。
人間の内部は見透しの利かぬものだ。
そんな事なら誰も言うが人間がお互の眼に
見透しのものならその途端に、人間は生きるのを止めるだろう。


何んという不思議か、とは考えてみないものだ。


恐らくそれは、あまりに深い真理であるが為で
あろうか。ともあれ、良心の問題は人間各自
謎を秘めて生きねばならぬという絶対的な条件に
固く結ばれている事には間違いなさそうである



考えるヒントより



乱読癖のある私が選ぶ本に一貫性はないが
愛読するものは不思議と同じ場所に行きつく。
それが上記の「良心」である。


昔から「愛」という言葉に違和感を
感じていた。もちろん親の愛や家族愛、
人類愛を否定するつもりはない。ただ、
かのオウム信者やイスラム過激派といった
人たちの行動原理は何かと考えると上記のような愛、
つまり(信仰愛)ではないかと思うのだ。



今の政権だって組織愛に基づいた行為だろう。
極右だって国を愛している。属する組織、
集団だけを正しいと思い、擁護しているのだ。



それはつまり自分に都合の良い者だけを愛し、
愛するもののやっている善悪がわからなくなっている歪んだ状態なのではないか、と。







愛は動物にだって教えることはできる。
毎日餌をやり世話をすれば犬猫は懐く。
場合によっては虎だってなついてくるだろう。


しかし動物に良心をどれだけ説いても理解することはない。



悪や獣にも愛は存在するが良心だけは
人間にしか存在しない。そして今のような
歪んだ愛の世界にブレーキをかけるのは
個々の良心ではないかと思っている。



なるほど。世界に絶対的な(固定された)
善悪というものはない。判断するのは
自己の中心にある真心だろう。
それは個人の感性のうちにしか生きられず
組織化されたり言語化されるという客観的な
力を持つことができないのだ。


はっきりと命令もしないし強制もしない。


だから、私達は皆ひそかにひとり悩むのだ。
それも、悩むとは、自分を審くものは自分だと
いう厄介な意識そのものだからだ。
公然と悩む事の出来る者は、偽善者だけであろう。 


恐らく、良心とは、理智ではなく情なのである。
※太字は全て引用です。


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