2018/04/06

偏りは個性などではない。


個性を他人との差異、「偏ったもの」
だと言ってる人がいますね。


ただ「偏見」よろしく何でもかんでも
ひっくるめて個性だというのであれば
皆が皆、生まれながらに個性的と言えるでしょう。


結論から言えばそんなもの個性などではない。
仮にそうなら偏屈な人や意地悪な人、他人の
気持ちを全く考えない「未熟性」も個性になってしまいますわ。


そんなものはただの特殊性です。
血液型や星座と同様、自分の意思と
関係なく勝手に与えられたもんです。


個性とはそんな持って生れた自分の
特殊性を乗り越えようとする意思そのもの。
本源の回復と書けば大げさでしょうが
自己の中心に宿る志向性に従うこと、
実在である今に生きることでしょう。


まあ、あくまでも個人的にですがね。


✍✍✍

閑話休題。
その努力によって拡大された知覚は、
VISIONと呼ぶべきもの、ゴッホは
その境地に達したと小林は言います。


ゴッホは定期的に発狂する病気でした。
例えば有名な自画像があるでしょう、
あれは無意識のうちに自分の耳を切り取り、
それを女性に送った後に描いたものです。


それだけ見れば彼は精神異常者ですよ。
しかし実際は頭が良く、優しく、強い
意思を持っていた。そんな男が非常に厄介な
「偏り」を自分の意思と関係なく与えられてしまったんです。


普通の人なら医者に頼り一切を任せるか
自暴自棄になるに違いない。ただゴッホは
そこから逃げずに向き合ったのです。
ベートーベン然り、自らの特殊性を受け入れ
乗り越えようとした。


その超えた先にあったものが
普遍性のある芸術であり拡大された
知覚(VISION)、ここに小林は真の個性を見たのです。





ゲーテば本物の芸術には力強さがある゙
と言います。


何かと向き合い深く関わるには内在する
悲しみや憎しみを含めたものも受け止め
ないといけない。そしてその複雑さに
耐えうるには強い精神力や忍耐力が必要だと。


なるほど。自分の見たいものだけを見て、
やりたいことだけをやってる間は分からない。
これは芸術だけに限った話ではありませんね。


近年よく言われる「ありのままの自分」が
どこか薄っぺらく感じるのは、それがただ
複雑なことから逃げ出すための口実になってるからかもしれませんね。




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