2016/01/15

無常の中から掴む常。





「冬来たりなば 春遠からじ」。



この国では「冬を超えれば、やがて春が来る」の
意味から、頑張って耐える時に使われています。



まるで日本の無常観を歌ってるように見えますが、
実はこの詩はイギリスのロマン派詩人である
シェリーという人物が書いたものなんですね。



語源は「If winter comes, can spring be far behind?」
冬が来るなら,春が遥かに在り得ようか?」。



原文が疑問符になっている、ということは、
「来るかどうかは定かではない」と言うのが本来の意味でしょう。



季節は常に巡る「とは限らない」。
ということで、今日はそんな無常観の小噺でも。








さて、あらゆる循環の裏に動く力とは
「自然の力」であるのは言うまでもありませんが、
その自然の循環もまた、必然ではありません。



以前書いた「特異点」のように、世界は
結論できないことが科学によって明確にされた以上、



世界は「ああすれば、こうなる」という単純な
法則ではなく、保障などできるものは何もないと。



なるほど、最近の世界気候の異常さ・極端さを見ると、
四季ですらそうではないのだろうなと、実感しますね。




こちらのサイトより引用





予測不可能性。
現在はまさに何が起こるか分からない
無秩序な性質が露わになっていますが、



これに世界の社会混沌が加わることで、
人生に絶望している人が増えているようです。



この間、この国の若者たちの自殺率が
世界トップクラスになったという記事を見ましたが、



「耐えられない寒さ」が永遠に続くとなれば、
誰だって生きることを放棄したくなってしまいます。



「一寸先」が闇となってしまえば、
生きる気力が失われるのは当然のこと。



「世界」は四季と違いある時期を過ぎれば
勝手に暖かくなるわけではなく、



世界が春になったからといって
「自分の人生が」春になるとは限らない。



結果「分からないもの」=「不安」=「絶望」という
図式が成立してしまうのでしょう。



☞☞☞


しかし、古来より我々は時節を待つことを
明るく捉えていました。



辛い時は永遠に続くものではなく、
明るい時代がやってくる前触れなんだ、と。
まさに「冬来たりなば、春遠からじ」と同じ考えです。



では、これは単なる「思い込み」でしょうか。



いいえ、むしろこの精神態度こそ今を生きるために
必要な「あいだ」の構えであって、



それが出来るのは、間に位置する
人間だけだと思っています。



なぜなら「知っている」のではなく、
積極的に「信じている」から。



世界は「0」ではないが「1」でもなく、
0になる場合もあれば、1になることもある以上、



絶対的な希望はないという認識(諦め)によって、
そこから自分自身が「希望」となり幸福を目指しているのです。



☞☞



平常の心を作り、秩序を作れるのは自分だということ。



本来の神社参拝も参拝するのは自己(内在神)。
神社に仏像がなく、中心に鏡があるのはそういうことです。






外の環境だけを頼りにしてしまえば、
僅かな希望と絶望の狭間を彷徨い続けるのは必然、
特に今の社会では、拠り所になるものは見つからないでしょう。




無常の中の常は
自己の中心にしか存在しないものを発見し、
それを掴んだら離さないこと。




僕の弥栄もそう、円転回帰概念もそう。
季節のような「外部」ではなく、内在した循環性を
積極的に信じる態度です。



これは本来の信仰にも通じる気がしますね。
自己中に生きるとは、そのようなものです。





0 件のコメント:

コメントを投稿