2016/01/28

メタローグ的対話によって志向性を共有する




このブログではよく出てくる
単語に「志向性」というものがあります。



フッサールがブレンターノから継承し、
編集したこの概念(以前は志向的でした)、



その原型(雛型)は「イデア」より始まり、
アリストテレス、トマス・アクィナス(5つの道)にまで
遡れる持続性を持った演繹的要請でしょう。



それは未だ見ぬ真理への憧れか、
充足することのない欲望か。



そんな無自覚的で朧げな解は
一体どこからやってくるのかはわかりませんが、
それを共有するためにも対話は必要です。



理念もそう。壁に飾っておけば
浸透されるものではなく、対話によって伝えるもの。



まさに禅的な「不立文字」なんですが、
それこそ共有された見えない「資産」なんですね。




今日はそんな「対話」の小噺








以前お伝えしたように、相手を知ろうとする
態度を両者が行った結果、第三の主観性が生まれます。



それはunreveでいう「あいだ」、
フッサールならば「間主観性」の概念ですが、
この有無によって、結果は大きく異なるのは間違いありません。



なぜならメタローグ(深い対話)には「あいだ」があり、
ディベート(論争)にはそれがないから。



異なる価値観などをすり合わせる際、
一方的に自分の価値観を押し通す人は
対話ではなく、実は論争をやっている。



わかりやすい例で言えば「朝ナマ」とかそうですね。
見てたら切れ味よい個人の意見が
バンバン出てきてますが、あれはただの殴り合いです。
(討論目的でやってるので批判しませんが)



打ち負かした個人はスッキリしてるでしょう。
場合によってはケンカした後の様に、
お互いがスッキリしているかもしれません。



ただ、違いを認める(内包する)ことはありません。
問題自体は変わらず、水平線のままです。



現在、この「論争」を「対話」だと思ってしまい、
自論の正当化が「良い意見」だと思ってる人がいますが、



それは「多様な専門家の意見を取り入れる」
のではなく、異なる意見を潰そうとする意図。



本来、そういったレトリックは閉塞して
にっちもさっちも行かない場合において
はじめて有効性を持つものなのですが、



今は閉塞感の打破という共通の目的というよりも
自分の意見を押し通すことが先に来ているんですね。



☞☞


そもそも言語は形態であって実体ではない以上、
客観的実在は言葉では捉えられません。
(ソシュールがシニフィエとシニフィアンを
区別したのもそういった理由からでしょう)



言葉だけでは真の意味は掴めない。
だから僕は契約前に必ず一度会うのです。



個人事業主が協業先を見つけるのは容易いですが、
企業という共同体を形成すれば、必ず価値観の異なる
人との共同作業になります。



これが目の届く範囲の人数であれば
問題ないでしょうが、数百、あるいは千と
規模が大きくなるにつれ、風土や文化が重要となります。
それを作り出すのが「対話」なんですね。



ちなみにそれは「気軽に雑談できる雰囲気」とは違います。
それは価値観を受け入れる必要のない
「会話(ダイアログ)」的コミュニケーション。



本来は、心にある絵を一致させる行為、
カンバセーション(conversation)に近いものです。



現在、多くの企業がソーシャルを活用していますが、
あれも「会話」で関係性を繋げているところが多いので、
今後、生産者と消費者との「対話」がより重要になってくるでしょう。



社内外の深いエンゲージメントを求めるなら、
「メタローグ的対話」をやってみてはいかがでしょうか。
方法を知りたい方はこちら↓






0 件のコメント:

コメントを投稿