2015/06/02

本質観取



こんばんわ。坂口です。



6月に入りました。
今年もあと半分と思うと、焦っちゃいますね(゜゜)



さて、今回のテーマは「本質観取」、
ヘーゲルの概念なんですが、


この人の本はとにかく難解すぎる、
敬遠されている方も多いんじゃないかしらん。



自分で言葉を作ったりして、
どうにか可視化しようとしているんですが、
普通に読むとパンクしますね。




そういや、僕が起業した当時は
「本質」という言葉を書いただけでも、
重たい奴とかイタイ奴だと思われていたんですが、



最近、この言葉を頻繁に見ることから、
違和感なく使われてきているように感じます。




なるほど。
インクを大海に一滴だけ垂らしただけでは、
その色の変化に気づかないけれど、




それを繰り返すことで、
やがて色濃く浸透していく、世の常でしょう。










さて、unreveの「本質」とは根幹(リゾーム)、
つまり「そもそもの前提」に気付くことです。



しかし、簡単に出てきません。
それはタマネギの皮のように、多層的なのです。



その結果、多くが
「本質の手前」を原因だと捉えてしまいます。



例えば現在の問題点を解決する場合、
まずその原因になってるものを調べますよね。



QCではフィッシュボーンダイアグラムとか
使って重点要因を決定し、そこに手を打つし、
トヨタみたいに「なぜ」を3回繰り返したりするんですが、



こういったロジックでは、必ず
「見える部分」が阻害要因になってしまいます。



だからあり方ではなく「やり方」に
テコ入れしてしまうんですね。



これがビジネスなら(まだ)良いでしょう。
最終的には「ある秩序(システム)」と接触するので、
そこが(とりあえずの)改善点、ゴールなわけです。
(結局、システムとコストだけになるんですが)



しかし人間的な問題はそうじゃない。




実は、学問的真理の無力さも
そこにあるのです。




☞ ☞ ☞




例えば、道教では
「道(タオ)とはすなわち目的地だ」と言われます。




では、道そのものが目的ならば、
なぜその道を「歩いていかなくてはいけない」のでしょうか。




皆さん、分かりますか(笑)?




実はこれ、「なぜ」の究極領域なんです。
それ以上説明ができないもの。




例えばこれから科学がどんどん進歩して、
いつか宇宙の始まりを正確に説明できるかもしれませんけど、



「なぜ宇宙は作られたのか?」は
永久に説明できないでしょう。



意味はあるのか?ないのか?
ないのなら、「なぜ」それは存在するのか?



この行き止まりを解決する為に、
意味を求める人は「絶対的な価値」を作らなくてはいけません。




そこで登場したのが、
形而上の神や、真理なのでしょう。




☞ ☞



人間にとって神話が必要なのもそう、
我々にはこういった「神へ至る道」がなければ、
「意味の問い」に答えられない。




それによって普遍的な「物語」が生まれ、
無意味性に意味が付与されるということは、



言わば本質的な「無意味、無価値」を、
意味、価値として「再定義」していると言えます。



ただ、(誤解を恐れずに言えば)
宗教なんて神を相手にしたビジネスであって、



普通に考えると、良いことをした
「見返り」として、報酬を求めてる以上、
その善意には「意味」が付与されている。



ビジネス的な価値交換としてなら良いでしょうが、
「絶対的に善いこと」とは異なるもの。



また、そんな「善」が多数の圧力によって
最高の価値として観念化されれば、



その定義された「善」は必然的に
対立概念である「悪」も引っ張ってきます。



☞ ☞



その「善」の理由が限定化されれいけば
「自分の作った神(善)」を押し付けてしまい、



逆にそれをやっていない相手は「悪」、
やっつける対象となる。



当てる光が強いからこそ、影も色濃くなる。
これがあらゆる争いの根幹なのでしょうが、
何かの意味を付与する以上、避けられません。





逆を言えば、本質的な善は無償。
つまり損得もなければ、打算もないものだと言えます。
(詳しくは「行動と行為の違い」を)




子供たちの「遊び」などは、
意味や実利など全くありません。



しかしそこには「喜び」という志向性がある。
理念はそれに近いものがあります。





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