2015/05/19

内包性と外延性②




不平家とは、自分自身と決して
折り合わぬ人種を言うのである。


不平家は、折り合わぬものはいつも
他人であり、環境であると信じ込んでいるが。


環境と戦い、環境に打ち勝つという言葉も
ほとんど理解されてはいない。


ベエトオヴェンは己れと戦い、
己れに打ち勝ったのである。



言葉を変えて言えば、強い精神にとっては
悪い環境も、やはりあるがままの環境であって、



そこに何一つ欠けている処も、
不足しているものもありはしない。



・・・・

命の力には、外的偶然をやがて
内的必然だと観ずる能力が備わっているものだ。



小林秀雄「モオツァルト 無常という事」より





前回に続き、二回目です。









現在、起こっていることを、
きちんと、正確に、理屈で、説明して、納得したい。




これで哲学者が独断の理屈家へと
陥ってしまう、よくある落とし穴ですね。




理詰めの追求の挙句、何らかの
客観的結論を得たとしても、
それは氷のように、あっという間に溶けてしまう。




端的に言えば、秩序形成や体系構築を、
そのどちら側に求めたか、それだけでしょう。



以前書いた三浦梅園は現実と合致する
秩序観(条理)を自然に求めました。



本質的な秩序とは、能動ではなく
受動的、自然に派生するもの。



つまり「秩序づけるもの」ではなく、
「秩序づけられるもの」だとしたんですね。



そんな自然派生を俯瞰したものを、
unreveでは端的に面思考と呼んでいます。




☞ ☞ ☞




自然に起こる秩序とは何か?



例えば現在、あらゆる分野で「人為的な」
秩序の崩壊が見られます。




学校然り、企業しかり。
ともすれば国家だってそうでしょう。




今ある秩序が崩壊することによって
当然、何かしらの問題が起こるのですが、



そこで部分と全体の認識観の違いによって、
我々のとるべき態度が大きく変わってきます。




例えば大手企業が衰退しているのを
部分観の立場の人が見れば、



問題を「従業員やシステムが悪いのだ」と、
あくまでも部分開発にテコを入れます。
(これはコンサルに多い)



結果、社内制度を改革したり、能力開発や
社外セミナーに参加させたりしながら、
従業員の意識を「意識的に」変えようとします。



もちろん効果がある「ケース」もある。
しかし、ほとんどが短期的な効果です。



反面、全体観で見る人は、
そういった「全体の」過剰な締め付けこそ、原因だとするのです。



学校でいえば、子供ではなく
閉塞的な社会や教育(環境)が原因であって、



会議で発言が少ない、活発でないのは
同調圧力が強い「場」こそ、問題であって、



テレビ番組がつまらないのは
規制が強くなりすぎたためである、と。




故にそれを回復する為
「逆に」自由にさせる方法を取るのです。




どんな意見でも良い。
「気にせず言える」という環境(風土)
が重要だ、と。



☞ ☞



そのどちらの立場を取るかによって
解決方法や志向性は、全く違うものになってしまいます。



そして、そのどちらが根幹かと言えば、
間違いなく後者でしょう。



冒頭に書いたように、我々は
どうしても目に見える形で説明したいのですが、



「見えないものは感じる(体験)しかない」という
当たり前のことにそろそろ気付かないといけない。



前回の繰り返しになるのですが、
見えない、触れられないという
意味で考えるならば、確かにそれは「抽象的な原因」です。




しかし、それによって現実が成立するという
意味において考えるならば、それは「具現的な原因」と言えます。




「泳げるようになるには泳がなくてはいけない」



これもまた、当たり前のことです。




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