2015/05/25

葛藤の忌避




流される事に対し、
さほど抵抗がない人がいます。



ベタで分かりやすいものに従属し、
思考停止になっている自分を
まあ、それでいいじゃないか、と。


もちろん、それは個人の都合であって
勝手ではあるけれど、



僕はそれがどうしてもできないタイプのようです。
だから同調圧力は必死で抵抗してしまう。




「悩まないための方法」、
「絶対うまくいく方法」などのハウツー本や、
「これをやると失敗する」という対極本が
我々の葛藤を忌避させている原因でしょうが、




僕は葛藤なきスムーズな人生が、まるで
ロボットのように見えるんですね(笑)




なるほど、ロボットは悩んだり
葛藤はしない。




持ってる情報から最適解を「選ぶ」だけですから。




前置きが長くなりましたが、
今日はそんな所から。。。











さて、度々お伝えしているように現在は成熟期。
つまり切実な欲求がほぼ満たされた状態です。




企業がどんなに新しい商品をリリースしても、
多くが「あった方がいいかな」くらいの感覚でしょう。



そこでセグメントを分けたり、場所を変えたり
指数関数を変えたり、売値帯を変えたり、
組わあわせを変えたり・・・と、試行錯誤をしているんですが、



目に見える物質世界を分ければ分けるほど
逆に分からなくなってしまう。



結果、量だけが膨大になり、蓄積された
それに対する分析コストだけがどんどん跳ね上がる。



そこに帰納法や科学の可能性の限界を
感じますね。




誤解を恐れずに言えば、
熟れた果実が決して若くならないように、
正直、一旦成熟したものはどうしようもないと思っています。



ただ、草原の美しさを維持する為
「野焼き」が必要なように、



人工的に自然のサイクルを変える
方法があるかもしれませんが、




どちらにせよ、一度既存のものを
壊すか、離れるかしないといけないのでしょう。




☞ ☞ ☞


苦しみから生み出すにせよ、
楽しみから生みだすにせよ、
この「生みだす」という行為は必ず葛藤があります。




創造とは、そんな精神と精神の「間」の
生成に成功したとき、輝くのではないでしょうか。



今の葛藤とはまさに「原理」の衝突でもある。




現在の経済(消費)原理を支えているのが
消費者の「切実な欲求」であると仮定した場合、
その志向性はすでに閉じられている。



故にその志向性を追究しようとすれば
後はニッチか海外進出しかないのですが、
それも時間の問題でしょう。




よって、我々は目指す志向性を「物質的豊かさ」や
「切実な欲求」とは違った志向性が必要であって、




それが理念でお伝えしている個人の
絶対命法である幸福の提案だと思っています。



☞ ☞



幸福の定義は人によって様々です。
今は十人十色というよりも百人百色、



人によって多様な幸福の形があることに
多くの人が気がついている。




それをパターンとして捉えようとしているのが
ビッグデータでしょうが、騒がれてはいる反面、
具体性なプランまでは到達していないのは明らかです。



かのコトラーはビッグデータで分かるものは
行動だけであって、態度は分からない、と言ってます。




そんな行動一元論の結果、論語読みの論語知らずのようになるのでは、と個人的に思ってます。



☞ ☞



肝心なことは、自分が「本当に感じたこと」や、
「心が動かされたこと」から演繹的に出発して、
その意味を深く考えることではないでしょうか。




個人の内部の感覚派生、
それが本来の思想であり、価値だと思ってます。




失礼、今日も答えがない記事でしたね。




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