2015/05/18

内包性と外延性






人間は、皆それぞれのラプトゥスを持っていると
簡単明瞭に考えているだけである。


要するに数の問題だ。
きちがいと言われない為には同類を
ふやせばよいのだろう。



小林秀雄 「モオツァルト 無常という事」より。




ビジネスの世界では「抽象概念」や
「観念的」というものは嫌われる傾向があります。




「あなたの話していることは抽象的で分かりにくい」



それはクライアントの心に
響かなかったことを意味しますし、



「観念的で具体性がない」というのも、
大半が失望の表れでしょう。



これに対し、現実的な「具体性」を持った
内容というものは、非常に喜ばれます。



この具体的というものは5w1hや
フレームワークのように具現、可視化できたものであって



スパッと、白黒はっきり区別し、
「ああすれば、こうなる」といった明確なビジョンを
提示する、ということです。



これが今の経済の根幹となっているのは
説明するまでもありません。



僕も会社員時代はQC活動の際、
何十回やったか分からないくらい、
この手法で進めてきました。



独立当初もそうだった。
しかし、それは成功に見える失敗だったわけです。



資料自体はキレイにまとまっているけれど、
中身と現実はどんどん乖離してしまう。



まさに机上の空論、絵に描いた餅だった、と。



当時、このギャップにずいぶん悩みましたが
ある日分かったんです。




見るべきは環境でコロコロ変わる
曖昧な「閾値」ではないのか、と。







(全てではないのですが)
具体的なものや現実的なものとは
見方を変えれば「その場限りのもの」でもあり、



リゾーム派生でいえば「枝葉」、
本質的な部分ではないと言えます。



具現性を持ったものが失敗するのは、
それが「派生の派生」だったから。



概念の内包性と外延性というものを
規定してしまえば、どんどん出自がぼやけてきます。



例えば精神という、
境界領域でふわふわしている心。



ここは科学では取り扱えない。
ストレスをメスで切除できないのと同じです。



このメスでは届かない部分に
焦点を当てなくては本質は変わらない。



ここから「やり方」ではなく「在り方」を
「自ら」掴むという主体の確立と、



それが対話によって「自ずから」生まれる
場の形成を柱としたんですね。


☞ ☞


絶対にそれに触れることができないという
意味で考えるならば、それは「絶対的な無」と定義できます。



しかし、それによって現実が成立するという
意味において考えるならば、それは「絶対的な有」でしょう。



西田幾多郎はこれによって
純粋経験からの善悪を定義しようと試みたのですが、
僕にはちょっと、サイズが大きすぎますね(笑)




次回も、もう少しこのテーマに触れてみます。





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