2015/04/15

自分だけの世界





我々の自己充足感はマイホームや
マイカーなどでは満たされなくなった、
これは書くまでもありません。



では何をすれば満たされるのかと聞けば、
答えられる人は少ないように思えます。



理由などいらない自分の嗜好性、
つまり自己の原点に気づくということは、



大げさに書けば、魂が純粋に求めるものに
従うということでしょう、




今日はそんなお堅い小噺でも。








さて、歴史を見れば、豊かな国家であっても
目指すべき理想を持たなければ、
衰退の道を辿っているのがわかります。



古代ローマしかり、ソビエトしかり。
エネルギーが建設から破壊へと転化されているわけです。



これは我々個人でも同じこと。


理想なんて偽善であって
現実だけが正しいと言う人もいるでしょうが、



ただ赤子のようにしていても
満足するものではない。



その証拠に、我々は食って、寝て、
排泄するだけは満足せず、


何か考えたり、伝えようとする行為を
誰から教えられたわけでもなく、やってる。



そもそも、我々はなぜ考えを語るのか。
こうやって書いたり、主張したりするのか。
苦しいと分かっていながら進むのか。



それは理想が現実よりも「善いもの」だと
思っているからに他ならない。
(この善いは幸福と同義でもある)



その判断基準は相対ではない。
まさに絶対的な内部派生「わたし基準」じゃないですか。




それは「こうしたい」という、
それ以上、それ以下のものではなく、



「こうしなさい」、「こうあるべきだ」でもない。



☞ ☞



「もっと現実を見ろ」と
野暮な人は声を荒げますが、本来は逆ですよ。



この理想という本質を知らず、
語れない人間に、現実生活の意味など分かるわけがない。



もちろん、行動や実践なくしては
全てが机上の空論になるのだけれど、




こういった理想は個人に与えられた
特権の認識であって、



「その人だけの世界」を
知ってるということでしょう。






個人的に、人は生まれた時に、
それぞれの世界を与えられてると思ってます。



それを作るのも、捨てるのも自由。
影響力のある人の世界に住むのも自由だし、
科学と言う客観的(に見える)世界に住むのも自由です。




ただ、僕は個人がそれぞれ理想を追求し、
それが調和した世界を見てみたい。




今やってるFCの理想像は
そのフラクタルかもしれません。






0 件のコメント:

コメントを投稿