2016/03/22

自分の感受性くらい




カントの言う先験的感性、つまり生まれ持った
イマジネーションというものは、
実に人それぞれだなあと思いますね。



僕は天才じゃないから分からないけれど、
感性の鋭敏な天才が見ていた世界ってやつは
一体どう映っていたのか、見当が付かない。



仕方ない、彼らは意識ではなく精神で
物事を見ているところがある。







ただ、我々も感受性さえ失わなければ
その眼差しをある程度、得ることができるでしょう。



昔の日本には「心眼」って独特な
言葉があるじゃないか。
それは生理学のいう肉眼とはまったく
別の認識方法です。



眼球はこれが水晶体でこれが網膜だと
絵や言葉として説明できるけど、心の眼は
説明できるものじゃない。



しかし、我々は何となくそれが分かります。
まさに、存在しないけど実在していると
認識している証拠です。



人は見た目が大事と言いますが、
それと人を見る目がある人が見ているのが
別物なのは、明らかでしょう。



確かに年を取れば内面が顔に出てきます。
これはどうも間違いない。



しかし、それはハロー効果のような
造形美的な魅力とは違います。



なるほど。
肉眼で見えるものは人をよく騙す。



だからベルグソンは眼があるから
見えるのではなく、眼があるにも関わらず
見えている、と言ってるんです。



そういった認識はいくら機械が発達しても
真似できないんじゃないか。



☞☞☞



そういった感性の働き、使い道ってやつを
早くに知っておけば人生は大きく変わっていくでしょう。



子供だからって甘く見ちゃいけない。
余計な理性が働いてない分、物事を見る目は
我々よりも鋭いものを持ってます。



例えば、我々の小さい頃を思い出せば、
ある程度の年齢になったら親の性格などすぐに
見抜いていた、看破してたでしょう。



親の魂胆など、全てお見通しだった。
ただ力がないから、渋々従ってたんです。



こういった心を大事に守っておけば、
社会に出ても、良い意味での反骨心になる。



しかし多くが大人になると
傲慢な心でその感受性を隠してしまう。



昨今、しきりに子育ての方法が叫ばれてますが、
母親が科学や心理学的観点で子供を見てどうするのか。



本来、母親は子供の様子をチラッと見ただけで
何を考えているのか分かるもんです。



その直観は交わりからくるもの。
母と子の交わりはそれだけ強いんです。



それなのに理性で解釈してしまうわけだ。
最近できたような育児法など、僕は信じませんね。



☞☞



無論、それくらいなら何の問題もない。
まあ、あるっちゃありますが。



問題は、これが極端になるとそんな自分を
正しいと思い込んでしまうんです。
論語で言う「過ちて改めざる」人になる。



よく観察して見れば分かるでしょうが、
そんな自意識で自己を主張している人は
ちょっと気が変になってます。



僕も自意識に負け、足を踏み入れる時が
あるのでよく分かりますが、あの時は非常に
危うい精神状態になってしまいますね。



自己の主張しているものをちょっとでも
傷つけられると、途端に気が狂ったように
人を傷つけてしまう。



仮に自意識が満たされてもすぐ渇く。
ありゃ、一種の薬物中毒みたいなもんだな。
薬じゃなく、自意識が空想の世界を作ってる。



そして、その幻想の中では自分が英雄です。
自らの行為を顧みない、神になってしまう。



今起こってる事件や政治家の発言を見ると、
まさにそのようなものだな、と思ってます。







感受性の使い道を心得ている人は
心の中の設計書を作ることができます。



そして、その設計書に従って表現しようとします。
これは創作の原理です。



彼らは皆、道を歩みながら家を建てています。
そして、そこは誰でも入ることが許されるので、
我々はその中で様々な体験を得ることができます。



そういった人が、芸術家であり、作家であり、
作詞家と呼ばれるんじゃないですか。



だったらベンチャー経営者はみな
経営家と呼んで良いじゃないか(笑)



否、経営の語源は経世済民だから経世家だな。
0から1を創る、やってることは同じです。




「後記」




とまあ感受性は大事だけれど
僕は鋭すぎる人にはなりたくない。
むしろ天才は可哀想だなって思ってます。



あんまり鋭いと気が狂いますからね。
切れ味が鋭すぎて、自分自身を傷つけちゃうんです。



だから丁度いい具合が一番良いんだけど
難しいな、やっぱり。




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