2015/08/15

三方良し、分かち合う心




消費活動において合理的という
価値観が強くなれば、他の価値が見えにくくなります。



仮に他の価値を感じたとしても、
継続的に利用するのは難しいでしょう。



これは地方と都市、商店街とショッピングモールを
比べてみれば、分かりやすいかもしれませんね。



例えば商店街が無くなるのは寂しい、
だけど商店街で買い物をする機会は少ない。



地方の良さは分かっているけれど、
都会と地方どっちかに住めと言われれば、
大半が都会を選ぶんじゃないでしょうか。



良い悪いという話ではなくて、僕はそんな
二律背反的な揺らぎに注目しています。



品質や価格や利便性や合理性で選ぶのが
賢い選択であるのにも関わらず、



商店街や地方が衰退し、
無くなってしまうのは困ると感じているという「揺らぎ」。



そんな頭では説明できない「心の声」に
耳を傾けるには、どうアプローチしたらいいのかな、と。





多分に、それは最大公約数的な市場の声、
多くの人の中に潜在されたものではないでしょうか。



もし、進化、洗練することに
絶対的な意味があるという価値観であるならば、



次々と目新しいものが生まれないといけないし、
常に心が刺激されるような体験が「外部」にないと、
その社会は価値が低いものとみなされます。



そうなると昔ながらの商店街は
なくなった方がいいでしょうし、


田舎にばんばんチェーン店が出来て
同じ風景になっても構わないはずです。



しかしそうじゃない。
なんだか「味気」がなくなってくるんです。



つまり、ノスタルジックなものと
フューチャリズムは同一線上ではなく、
別のところにあって、



それらが重なった多層的なものを
我々は求めているのかもしれません。



☞☞☞



僕が日本流を市場に投じ、問いかけているのも、
そんな今の価値観に対するアンチテーゼというよりも、
もう一つの素材に近いもの。



今の共同体で蓋をしてしまいがちな「感じる心」。
活気とか、馴染みとか、和気とか、心地のような
内部派生のビジネスをもっと広げたいんですね。



もちろん、実利なくして(今の)商売は語れない。
精神論や感情論だけでは成り立たないし、
マンネリズムに陥らないための新陳代謝は必要だと思います。



ただ商行為を初め、我々の住む世界は
人を媒体として成立しているという根幹は変わりません。



最新のロボットも、資本主義も
結局は人が作り出したわけでしょ。



そう考えると、今の盛隆と衰退は
必然的な自然淘汰のようなものではなく、



個々の価値の再定義次第で
揺り戻しが起こるんじゃないかしらん。




☞☞



消費が全てオートメーション化されるなら、
合理的な判断だけで決定されるでしょう。
より安くて、より高性能なものを選ぶだけです。



しかし我々は機械ではない。
さらに言えば、上記価値は相対的なもの。



祭りや旅行先で財布の紐がゆるくなるのは、
価値判断が一定ではない証拠ですよね。




また、我々は自分以外の人や物に対し、
考えることができる利他の精神があります。



それは感情論ではなく、それ以前にある。
誰だって当たり前に持っている根っこの部分です。



だから、それが完全に失われそうになると
「寂しい」と感じるんじゃないですかね。



成熟期の新しい概念は、新しさの中ではなく、
そんな以前からあったものの中に眠っているんじゃないかな。




例えるなら
錆びていたものを磨く、みたいな。






突き詰めれば、それは内と外の統合を目指すこと。
利己と利他、どっちも共存させること。




昨日は君、今日は僕。
そして、明日は知らない誰かになれるってこと。





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