2017/11/22

相対主義とビュリダンのロバ①




「善」と見るか「悪」と見るか。


神様だって聖神と邪神がいる以上、
それは観察者の自分次第である。


そんな量子力学的な知識を加えた
新相対主義者(?)を最近よく見ますね。
彼らは相手を否定せず自分の価値を
押し付けません。みんな違ってみんな良い。
天は人の上に人を造らずと、実に寛容な態度です。


ただ、個人的にはそれもまた盲信した
独善的価値観じゃないかと思ってるんですね。
釈迦の無常って考えだってそう。
「絶対は絶対にない」と断言する以上
それもまた絶対的価値じゃないかと。



今日はそんな自己矛盾を抱えた
クラインの壺の小噺、
あくまでも個人的な考察です。







戦後「人類みな兄弟」と言う
イデオロギーが確立されてから以降、
その教育を受けた団塊世代やその子供たちは
「敵側にも正義がある」という思想の土台を形成していきました。


銀河英雄、ガンダム世代ですね(笑)
最近のスーパー戦隊もの然り、
これがコンセプトになっているようです。
世界を一色で染め上げる「画一化」
というものは狂信的で危険である、と。


これに異論を持つ人は少ないでしょう。
人種や文化が異なる国同士がその土地の
ローカルな価値を認め合わなければ強国は
グローバルと言う名の価値を一方的に
他国に押し付けてくる。FC然り、僕は
均一的量産化を認めません。



ではなぜ相対(多様)を批判するかと言えば
そこには価値基準がないから。


相対的な考え方は「何が良いか」を模索する
精神的苦痛から解放してくれるので自由で
楽ではあるけれど、品位や美意識、そして
上質というのが一体どんな状態なのかが分からなくなってきますよね。


過剰な愛情が偽善(支配)へ陥るように、
過剰な自由が排除に繋がるように、


過剰な平等(すべて認める)は格差へと転じるのです。


平等は不公平




相対主義に偏り過ぎた人は、まるで
寓話「ビュリダンのロバ」のよう、


毎日毎日おなじ配合で同じ量の餌を
食べ続けたロバはそれと同じ餌が
二つあった場合、どちらも選択できず
餓死してしまうというお話。
この国では「二兎を追う」と言いますね。


つまり相対(どちらの価値をもを認める)は
「選択する」ことができない状態と言えるでしょう。



ではそこからどう選択するか。
長くなったので次回に続きます。





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