2013/10/07

原理衝突と窶し(やつし)

男性原理と女性原理のような異なる二項は
あらゆる分野においてその派生・構造が違います。


芸術分野ではバロック芸術がそれに近いでしょう。
ルネサンス期、秩序と運動の矛盾を超越しようとする運動がありました。



ルネサンス芸術が「永遠(常)」であるならば、
バロックとは「変化(無常)」という、アンチテーゼ。



バロック、ゴシック建築などを見れば、
それがよく分かります。







当時は、ヨーロッパでは宗教戦争の対立闘争が起こり、
国家や社会が分裂していました。



そんな混乱の中、頑強な秩序構造に対抗しながら調和するという
独特な心情的表現を現したのが「バロック」。



この2つを対比すれば、動的で変化する人間の感情と、
静的で固定する理性と秩序の激しいせめぎ合いが分かります、
これも原理同士衝突ですね。



ただ、バロックは二項同体に向かっているようでもあります。
バロック芸術は美しいのはこの為でしょう。



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男性原理は「作る」、女性原理は「生む」。
インフォーマルが馴染みやすいのはそんな理由からかもしれません。



ただ、男性原理が秩序・構造主義ではあるけれど
それ(秩序)を解体する動きも起きています。



例えば江戸の町人文化である「窶し(やつし)」。
この概念は実に深く、面白いものです。



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窶しとは、高貴な身分の人物が
あえて落ちぶれた様子を演じることで重層性や伝承性を高めるもの。


小野小町が江戸の娘に姿を変えるのも、
水戸黄門の水戸光圀が町人として旅をするのも「窶し」です。



裸の大将も、星の王子様NYに行くも、
ハウルの動く城もそう。


つまり窶しとはそのギャップによって
記憶に残すという工夫と言えますね。



現代で言えば、北野武氏は「窶し」。
「フォーマル」をあえて崩すという芸風だと感じています。



国際的に活躍する監督であり、
下町育ちのお笑い芸人でもある。



つまり「窶しにより固定観念を俗化させる」、
これは堅い言葉で書くと「転換による認識操作」でしょう。



高貴で近寄りがたいものを身近な「俗」にする行為、
かの石川淳は江戸の庶民にはそんな才能があった、と言います。



俗化する(固定観念を操作する)とは柔軟に捉えると言う事。
確固とした秩序に対立するものでなく「調和」に近い、



これは「ガチガチの秩序なんてやってらんないよ」という、
ちょっとした大衆の抵抗なのかもしれません。

今のお笑いはそこまで深くない、
芸風が、まるで「意図的な」大量生産のようです。


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マルチチュード である我々は
外圧的な強制力である秩序を嫌います。



教育のシステムが行き過ぎたからこそ
草の根運動であるオルタナティブが生まれ、



経済システムが行き過ぎているからこそ
ノマドが生まれる、これは必然の流れかもしれません。




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近代、西洋の文化が流入することで
理性(論理)と精神性(慣性)の原理衝突が
この国に起こり、西洋原理が優勢になっていました。



しかし今はそうじゃない、
どうも揺り戻しが起こってる。



リゾーム派生のフランチャイズはそれを見越したもの、
バロック的ともいえる「秩序との調和」です。



反対勢力では意味がありません。
リゾームとは役割を理解し、「同時に存在させる」事。



無法地帯でもカオスでも野放図でもない、
言わば「良い所どり」なんですよ^^


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