2012/10/15

見えすぎるのも考えもの




坂口安吾が出したブルーノ・タウトと
同名著書「日本文化私観」では



真の模倣とは発見であり、インスピレーションは、
多くの模倣の精神から出発し発見によって結実する、とあります。



そこには必然性も決定的な素因もない。



昔から日本に行われていたことが、
昔から行われていたという理由によって、
日本本来のものだとは言えない、と。



故に、タウトが愛した桂離宮が高尚であり、
東照宮が低俗だというものではなく、



「ミカタ」を変えてしまえば
どっちもどっちだというのです。



なるほど、安吾は物事が見えすぎていたのでしょう。



☞☞


さて、氏は近代文化を「芸道、地に堕つ」と
以下のように批判しています。



近頃は劇も映画も一夜づくりの安物ばかりで、
さながら文化は夜の街の暗さと共に明治時代へ逆戻りだ。


蚊取線香は蚊が落ちぬ。きかない売薬。火のつかぬマッチ。
しかし、これは商人のやること。芸は違う。



芸人にはカタギがあって、権門富貴も屈する能あたわず、
芸道一途いちずの良心に生きるがゆえに、芸をも自らをも高くした。


芸は蚊取線香と違う。
けれども昨今の日本文化は全く蚊の落ちない蚊取線香だ。


どんなヤクザな仕事でも請ける。
二昔前の書生劇でも大入り満員だというので、
劇も映画も明治の壮士芝居である。



職人芸人の良心などはくそくらえ、
影もとどめぬ。文化の破局、地獄である。


かくては日本は、戦争に勝っても文化的には
敗北せざるを得ないだろう。


即ち、戦争の終ると共に欧米文化は日本に汎濫し
日本文化はたちまち場末へ追いやられる。


芸人にカタギがなくては浮かぶ瀬がない。芸の魂は代用品では間に合わぬ。






芸道とは能楽や世阿弥、歌舞伎や人形浄瑠璃の他、
華・茶・武術など、あらゆる道を総称したもので、



その真意は、芸術思想と倫理思想とが交叉する
思想領域を切り開くことです。



世阿弥が利己的な精神なく修行することによって
その功徳が生まれ、極め尽くすことが寿福であると
説いているように、「前提」が全てを決定するのです。



なるほど、芸道のための自己練磨ではなく
自己利益(寿福)の為の芸道であれば、廃れてしまう。



安吾は目的を取り違えれば本質を
見失ってしまうことを、芸道に例えたのでしょう。



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本質主義とは余計なものや無駄なものを削ぎ落とし、
誤魔化しのないシンプルなものを目指す者ですが、
氏はまさにその道から逸れることはありませんでした。




今の時代にいるならばどんな作品を書いたでしょうか。
少なくとも、アフォリズム的なものは書かないでしょうね。




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