2012/04/10
パタン・ランゲージ
スキルが発達すればマニュアルはかえって邪魔になる、
これは熟練のプロフェショナルなら頷ける部分だろう。
マニュアルとは言わば「制約」である。
遵守であるが厳守ではない。
しかし、この制約によって
暴走に歯止めをかける場合もあるのだ。
今日はそんなところから。
あくまでも個人的な意見です。
アレグザンダーはセミラティス構造による認識が重要だと説いた、
セミラティスとは、組み合った集合の包含関係のことである。
長い年月によって自然に派生した都市の形態に
物質的要素の集合が関係性を持ち合う、
まさに統合的な構造論だと言えるだろう。
氏は自然構造はすべてセミラティスだが、
我々人間は、それらを全てツリー構造に
還元してしまう傾向があるという、
「都市はツリーではない」。
なるほど。アレグザンダーの目には
ハイエク同様、不自然な都市に映っていたのだろう。
☞☞
建築家の創造性は時として暴走してしまう。
ツリーへの希求とは、まさに理性的な偏在である。
しかし、専門家以外の人からすれば、その
暴走性に対し、反論することができない。
これでは集団の力はますます強固になる。
国家もまた、同じことが言えるだろう。
故にアレグザンダーはそこに境界線を引いた。
それが「パタン・ランゲージ」である。
それは建物や街の形態に繰り返し現れる
法則性(パターン)を言語(ランゲージ)にして
誰でも参加できる共有言語のこと、
その数、実に253種類パターン。
これによって、専門家ではなくとも、
意見することができるし、チェックすることもできるだろう、と。
いわばクリエイティブである創造性に
ある種の制約をかけることを目的としているのだ。
ちなみにこのパターンはコンセプトと違って変化する。
だからこそ、「生き生きとした有機的な都市」が
生まれると言うことだ。
現代人は法則とか概念とか、建物や町を
生き生きとさせるにはなにをすべきかと言った
ことに捕らわれすぎていて、事物がなすがままに
発生するのを恐れるようになった。
「体系」や「手順」とともに作業をしないと
自分たちの環境が混沌に陥ると思い込んでいる。
~「時を超えた建築への道より」~
一人の天才が作り出すものと
最大公約数的な集合知、そのどちらが
優れているかは断言できないが、
氏が作った「共有地」であるこのパタン概念は
我々も参考になるのではないだろうか。
「後記」
とは言え、パタンだけでは
どうもうまく行かなかったらしい。
そこでアレグザンダーは解決策として
「秩序の本質」を書き出している。
それがまるで哲学書か神秘主義者が
書いたような内容になっているのは、
多分に本質を追及した結果だろう。
もしかすると、アレグザンダーは
形式できない形式美を求めているのかもしれない。
2012/04/09
ビッグの終焉
松岡正剛氏の「千夜千冊」より一部引用
日本社会では「大きいもの」や「大きいこと」が
いまだ罷り通っている。
とくに大企業は生き延びるためにはひたすらM&Aをしつづけて、
巨体を虚体にしながらも「ビッグ」を維持しようとする。
よせばいいのに、それを四半期ごとにチェックする。
中略~
すでに「大きいもの」は偏向しているか、
荷重に喘いでいるか、衰弱しつつあると見るわけだ。
中略~
もはや「大きいもの」が信用できるとはかぎらなくなったのだ。
大軍事、大原発、大農業、大銀行、大証券、大企業、大コンサル、大流通、大団体、大新聞、大代理店‥‥。
引用終了
ちなみにこれが題材とした著書「ビッグの終焉」、
「大きなもの好き」のアメリカ発というのがまた興味深いです。
unreveのFC概念にも通じることから
今日はそんな所からの小話でも。
☞ ☞ ☞
さて僕自身、これを手にとって読んでいないので、
都合のよい解釈をしているかもしれませんが、
新しい時代の組織形態は、すでにその概念から
可視化レベルにまで進んでいるんじゃないか、と感じます。
以前予想したように、あともう数年もすれば
FCの形態は大企業だけの特権ではなく中小にまで浸透するでしょう。
問題はその少数FCが「小よく大を制す」には、
その質において特化しなくてはいけない、と言う事です。
だからこそ、各自が主体性を持った「少数精鋭」であって、
これが「少数緩鈍」ではただの談合、仲良しグループです。
さらに、一部が引っ張るだけの構造では
ヒエラルキーのフラクタルにすぎません、大事なのは加減の定義です。
☞ ☞ ☞
思えば僕が4年前、このようなFC構造を持った
「小さくても最適なFC」を提唱した際、同業者からかなり批判を受けてました。
「フランチャイズは短期間で拡大する為のものですよ」と冷笑されたり、
「小さいFCなんて、全く意味がない」と言われました。
ただ今現在、その立場が変わってきたのを感じます。
アルビン・トフラーの第3の波は正しく押し寄せている、と。
・・・・リンク張ろうとしたけど、この記事も消えてますね(ノω・、)
兎にも角にも、もう少しです(笑)
ひっくり返す為には(数ではない)実績が必要です、
クライアントの皆さん、共にティッピングポイントを目指しましょう^^
☞ ☞ ☞
閑話休題
本書にあるラディカル・コネクティビティとは
電子ネットワークの「根っこ」(radical)で互いに繋がる
相互連接力(connectivity)だ、とあります。
つまり少数が「精鋭」となるためには
積み上げ式の階層ではなく流動性を内包したものでなくてはいけない。
それがリゾーム派生であり、組織論において
その非線形の最適な状態(間・場・拍子・あそび)を提唱しています。
「最適化」、これが一番難しい部分ですが、
これが持続性・継続性であるサスティナビリティを内包しているのは間違いありません。
最適化はサーモスタットの役割を持ちます、
つまり流動化するのです。
先ほど書いたように、階層型は積み上げる事はできますが、
固定されるが故、流動性は乏しく出る杭と見なされがちです。
逆にベクトル(または志向性)だけを枠とした組織は
積み上げる事やトップダウンには不向きな反面、その流動性は高い。
また、前者は拡大する為の吸収・合併が常に必要ですが
派生式はその自主・自生的な側面において最適に「浸透する」というニュアンス(散逸)に近いです。
両者を比べると大きな違いはその「境界線」であり、
それが分別のないフラットな形態を生み出すのでは・・・
というのを現段階、概念の定義としています。
☞ ☞
そんな流動性を保つためにも
「言語」を使って「対話」しなくてはいけません。
数字は客観性を持つ事から万人に共有できます、
しかし数字や理論だけではリゾームは派生しません。
例えば「前年比120%」と言えば誰もが同じ認識ですが、
「あなたが好き」と言えばその意味は人によって異なります。
その千差万別な「状態」を崩さない寛容さに加え、
数字とは別の「係数」を生み出す必要があるのです。
感情がリゾームのトリガーである以上、
数値・形式的だけのマネジメントから脱却しないといけません。
その感情でさえも数式化しようと試みるのは問題外です、
それはもう二進数の「01」と変わりません。
そして、だからこそ、優秀な人材が辞めていくのです。
選んでいるのは企業ではありません、伝わってますでしょうか。
日本社会では「大きいもの」や「大きいこと」が
いまだ罷り通っている。
とくに大企業は生き延びるためにはひたすらM&Aをしつづけて、
巨体を虚体にしながらも「ビッグ」を維持しようとする。
よせばいいのに、それを四半期ごとにチェックする。
中略~
すでに「大きいもの」は偏向しているか、
荷重に喘いでいるか、衰弱しつつあると見るわけだ。
中略~
もはや「大きいもの」が信用できるとはかぎらなくなったのだ。
大軍事、大原発、大農業、大銀行、大証券、大企業、大コンサル、大流通、大団体、大新聞、大代理店‥‥。
引用終了
ちなみにこれが題材とした著書「ビッグの終焉」、
「大きなもの好き」のアメリカ発というのがまた興味深いです。
- ビッグの終焉: ラディカル・コネクティビティがもたらす未来社会/東洋経済新報社
- ¥1,944
- Amazon.co.jp
unreveのFC概念にも通じることから
今日はそんな所からの小話でも。
☞ ☞ ☞
さて僕自身、これを手にとって読んでいないので、
都合のよい解釈をしているかもしれませんが、
新しい時代の組織形態は、すでにその概念から
可視化レベルにまで進んでいるんじゃないか、と感じます。
以前予想したように、あともう数年もすれば
FCの形態は大企業だけの特権ではなく中小にまで浸透するでしょう。
問題はその少数FCが「小よく大を制す」には、
その質において特化しなくてはいけない、と言う事です。
だからこそ、各自が主体性を持った「少数精鋭」であって、
これが「少数緩鈍」ではただの談合、仲良しグループです。
さらに、一部が引っ張るだけの構造では
ヒエラルキーのフラクタルにすぎません、大事なのは加減の定義です。
☞ ☞ ☞
思えば僕が4年前、このようなFC構造を持った
「小さくても最適なFC」を提唱した際、同業者からかなり批判を受けてました。
「フランチャイズは短期間で拡大する為のものですよ」と冷笑されたり、
「小さいFCなんて、全く意味がない」と言われました。
ただ今現在、その立場が変わってきたのを感じます。
アルビン・トフラーの第3の波は正しく押し寄せている、と。
・・・・リンク張ろうとしたけど、この記事も消えてますね(ノω・、)
兎にも角にも、もう少しです(笑)
ひっくり返す為には(数ではない)実績が必要です、
クライアントの皆さん、共にティッピングポイントを目指しましょう^^
☞ ☞ ☞
閑話休題
本書にあるラディカル・コネクティビティとは
電子ネットワークの「根っこ」(radical)で互いに繋がる
相互連接力(connectivity)だ、とあります。
つまり少数が「精鋭」となるためには
積み上げ式の階層ではなく流動性を内包したものでなくてはいけない。
それがリゾーム派生であり、組織論において
その非線形の最適な状態(間・場・拍子・あそび)を提唱しています。
「最適化」、これが一番難しい部分ですが、
これが持続性・継続性であるサスティナビリティを内包しているのは間違いありません。
最適化はサーモスタットの役割を持ちます、
つまり流動化するのです。
先ほど書いたように、階層型は積み上げる事はできますが、
固定されるが故、流動性は乏しく出る杭と見なされがちです。
逆にベクトル(または志向性)だけを枠とした組織は
積み上げる事やトップダウンには不向きな反面、その流動性は高い。
また、前者は拡大する為の吸収・合併が常に必要ですが
派生式はその自主・自生的な側面において最適に「浸透する」というニュアンス(散逸)に近いです。
両者を比べると大きな違いはその「境界線」であり、
それが分別のないフラットな形態を生み出すのでは・・・
というのを現段階、概念の定義としています。
☞ ☞
そんな流動性を保つためにも
「言語」を使って「対話」しなくてはいけません。
数字は客観性を持つ事から万人に共有できます、
しかし数字や理論だけではリゾームは派生しません。
例えば「前年比120%」と言えば誰もが同じ認識ですが、
「あなたが好き」と言えばその意味は人によって異なります。
その千差万別な「状態」を崩さない寛容さに加え、
数字とは別の「係数」を生み出す必要があるのです。
感情がリゾームのトリガーである以上、
数値・形式的だけのマネジメントから脱却しないといけません。
その感情でさえも数式化しようと試みるのは問題外です、
それはもう二進数の「01」と変わりません。
そして、だからこそ、優秀な人材が辞めていくのです。
選んでいるのは企業ではありません、伝わってますでしょうか。
リゾームと色相環
我々が持っている自信とは、内的動機の主材料であり、
それはモチベーションとは意味が全然違う。
そもそも自信があるからこそモチベーションが上がり、
自信があるからこそ、行動や決断に迷いが無いのだ。
仕事だけでなく、
人生においてはこの「自信=信念」で全てが決まると言っても過言ではない。
自信ひとつで認識がガラリと変わるのだ、
不可能を可能にし、非常識を常識とする。
自信がない人は他人に振り回される。
己の意見の正しさを己に認める事ができないからだ。
なぜ認められないか?
それは自分に正解が用意されていないからである。
そもそも意見や選択とは、どれもが正しくどれもが間違っている。
微分方程式である以上、絶対はない。
選択と決定は周囲の意見や社会通念、
通説、常識から判断するのが一般的なのだが、
それは多くの意見であり、マジョリティなだけである。
マジョリティは変化する。
なぜならそれは「部分的」を超えることがないからだ。
つまりマジョリティは「ミカンの意見」である、
そこではリンコの意見は当然「異論」となっているだけだ。
仮にあなたがミカンだとすれば、その意見は正しい。
絶対的な正解でもかまわない。
しかしあなたがリンゴである場合、それは正しくはない。
だからといってその意見が間違っているか、といえばそうではない。
これが覚えるべき第一の原則である。
本来、意見とは立場や環境など、特性の数だけあるのだ。
それを相手に合わせる必要はないし、その意見は我儘ではない。
我儘というのは自分の意見を「相手に押し付ける」事である。
今の世の中は「協調性と同調性」が同じ意味で使われている。
「世間の我儘」を全員で受け入れようとしているのだ。
当然人の精神は変形するし、奇形する。
それは美徳ではなく、ただのストレスだというのは言うまでもない。
本来、意見とは水と油の場合がほとんどである、
それをやれ油が正しいとか水が正しいとかで争っているのが現在の風潮だ。
「同じ意見の人もいるだろう」と思うだろうが、
それは、ただ「水と海水」のように属性が近いだけである。
例えば、好きな歌手が同じだとしても、好きな曲まで同じではないし、
仮に同じ曲が好きだとしても、テンポや部分まで全く同じ人なんていない。
意見が同一しないのは自然なことであって、
両親媒性物質のような対立した意見を混合させる媒体はないのである。
余談だが宇宙では水と油は混ざる。比重がないからだ。
悟りを端的に説明するならば、比重(差)を取った状態(一如)なのだろう。
☞☞
閑話休題
我々コンサルの最終的な目的はクライアントに自信を持たせる事だ。
意見を押し付けたり、一から十までやるコンサルはコンサルではない。
それは受注、請負業の仕事であって役割が違う。
悲しいかな、今の時代では自信は勝ち得るものであり、
場合によっては戦う時もある。
対立する意見を持った相手が同調圧力を強いる限り、それは続く。
つまり相手は排除か修正を強いているのだ。
ミカンの意見が正しいと、どうリンゴに納得させるというのか?
リンゴの樹はミカンの実がなるとでも言うのだろうか?
前回に続き書いてしまうが、一番やってはいけないのは同調である、
これが自信が失われる最大の原因なのだろう。
☞ ☞ ☞
今の同調社会は自信の欠如である、
今の若者が希望を持てないのは、何者にもなれないと思っている。
もちろんそんな事はない。
自分を知りさえすれば、自然に自信や希望や動機は起こるもの。
今の資本主義、つまり経済システムで生きている我々は
同調せざるを得ない環境にいるが、
現在、組織はどんどん縮小化されるか統合しされているかに向かっている。
属性をとことん無視するシステムか、属性ごとに分類しているか、である。
これだけコミュニティや異業種交流、草の根運動が増えたのも
近い属性同士が集まりだしている証拠だろう。
今までバラバラなものを会社と言う一つの箱に詰め込んでいたのが
崩壊し、新しく「再結合」されているように私には映る。
また、同じ属性が集まるのではなく(今はそれに近いが)
色相環の「補色」、五行の「相生・相克」を組み合わせたようなイメージである。
2012/04/08
職人のすすめ
鋭さと柔らかさを同時に持つのは難しいこと。
例えば、多くの人が関われば関わるほど、
良くも悪くもエッジの利いた部分が減ってしまいます。
シャープでとんがった部分と言うのは
僕の中では調和と同じくらい大事なもの、
職人的な事をやってる人なら分かると思うのですが、
妥協に愛情なんてそうそう感じませんよね。
市場は顧客から作られてるのは間違いない、
しかし、別の視点から見れば作り手が
市場価値を生み出してる側面だってある。
ここで「どっちが正解か?」となるから、
白黒になってくるんです。
今回はそんなことをツラツラと、
あくまでも個人的な意見です(・ω・)b
うちのクライアントさんのは圧倒的に後者である職人気質、
新たな価値を創りだし、そこに需要が生まれています。
通常のFCでは企画開発が一元管理し、
それを各店舗に広げていく流れですが、
FC加盟店がそれぞれの地域で、
それぞれの価値を生み出せるのが理想だと思っています。
そんな職人的なFCは今までありませんでした、
本来のFCの定義は「より簡素に、よりスピーディーに」。
そして「より画一的に」でしたから。
欧米的なFCをそのまま輸入して当てはめたもんだから、
スキル・テクニックのような「やり方重視」に走っちゃった。
そう言ってる私自信も以前はそうでした、
数字は経営を語ると信じていましたから(笑)
しかし、現場との乖離が一向に縮まらない、
例えば固定費なんてそもそも固定はしていないわけで、
人件費だってベテランと入ったばかりの人が一緒くただから、
人件費だけ見ても効率性(言い方悪いですが)が全く違う。
それを突っ込んで突っ込んでいくと
そこには数値化されない「人」に行き着くんですね。
人って不思議なもんで、その人の実力が仮に「50」だとしても、
環境次第で10にもなれば100にもなる。
在庫や光熱費のように一定化できないんですね。
だからこそ、「人材」です。
経営者の本を比べればすぐに分かると思うのですが、
海外の経営書が実質的な技術面(やり方)特化しているのに対し、
日本の経営書と言えば技術云々ではなく
考え方(在り方)を滔々と語っています。
日本なら、日本流のFCを目指すべきではないでしょうか、
そんな理由から「暖簾」というスタイルで継承するFCを構築しています。
職人のこだわりを暖簾に乗せ、
全国へ広げられたらどれだけ素晴らしいだろう、と。
そう思ってます( ̄▽+ ̄*)
思えば職人の人って今はかなり減少しつつあります、
飲食店なんてまさにそう。
多くの飲食店は既製品でのオペレーションが確立されましたし、
中食産業の形態も定着しました。
結果、優れた職人を高給で雇わずとも
チェーン店ではアルバイトやパートで運営できています。
しかしながら、知的労働にせよ、肉体労働にせよ、
今後は逆にこの職人が必要と思うのです。
職人はその業種の「裏と表」が分かってる、
やってる対象の「マイナス面」も知っている人が多い。
機械関係に携わる人だって、機械の「愚かさ」を分かってる。
「機械万歳」のような都合のいい一元論の人ではないんですね。
だからこそ、基本を始めとした「やり方」だけでなく、
全体の「在り方」までも見て、そこから自分の意見が出せている。
それを聞くと、冒頭に書いた独自の「エッジ」がある。
「あー、この人って職人なんだなぁ」と思ったりします。
そんな人には嘘や建前が通用しません、
職人タイプの人って、基本騙されない人が多いんですよ。
詐欺的なセールストークで騙されたり、
世間に出回ってる偽物思想に染まってる
一流職人なんて見た事ありませんよね(笑)
今は端的な「やり方」を情報化し広げ、売り、流動させるという、
フランチャイズばかり。
プロはいるけど職人はいない。
だからこそ、職人のFCを広げていこうかな、と。
2012/04/04
雪の轍
ロイヤルホストが中国から撤退したようですね。
(朝日デジタルより)
原因は、より高い賃金を求めて従業員が入れ替わり、
調理や接客などのノウハウが定着しなかったためだ、と。
確かに、いくら高性能なオペーレーションシステムがあっても
ノウハウの定着・蓄積がなければ水泡に帰す結果となります。
当たり前の事ですが、ノウハウを定着・蓄積するのは
開発部でも管理本部でもなく、「現場で働く人たち」です。
ここを備え付けのマニュアルと教育テキストで
管理できると思う事自体が間違っています。
国内でも人材不足で悩んでいる所の多くが
「オペレーション」ありきなんですが、
そんな欧米輸入のチェーン理論でやっていたから、
こぞってこの段階で躓いているんですね。
根っこ(本質的な原因)はもう分かってるはずです。
しかし、どうにか転換しようにも、母体は大きくなりすぎてるし
「根っこ(リゾーム)」が深いため、容易には変えれないのでしょう。
故に、簡単で短期的な「お金」で解決しているんですが、
現在、お金だけでは人が集まらない。
皮肉にも、彼らは価格で人(お客)を集める事に成功し、
価格で人(従業員)が集まらないのです。
結果、数千万をかけて作った店舗や
赤字ではない「黒字店舗」が「空箱」になっています。
☞ ☞
このように、国内にせよ海外にせよ、
撤退する背景には不完全な運営状態による、
「らしさの喪失」があります。
今回の件しかり、以前のユニクロしかり、
誤解を恐れずに言えば、資本がある企業が
拡大しようと思えば、いくらでもできます。
事業の拡大自体はさほど重要ではないのです、
DNAをいかに引き継ぐか、これが重要なのです。
そのDNA(らしさ)が、継承すべき暗黙知です。
それは、ブランドやマニュアルとは違う場所にあります。
この概念を失ったまま、規模だけを拡大する。
それはもう拡大ではなく、単なる「肥大化」です。
肥満体になって「成長した」とは言えません。
逆にそれは「劣化した状態」なのですから。
☞ ☞
そもそも拡大の欲求は、人間の根源的な本能です。
よって、誰もがこの欲求を持っています。
それを抑えろ、ではありません。
本来の拡大の定義は「成長」という事を理解するのです。
ブクブク太りたい、という人なんていません。
この加減の定義が日本流FCの最大のポイントです。
膨張や肥大化は、ただの「暴走」であって、
風船やバブルのように、やがて弾けるのは必然、
有限の世界である以上、必ず飽和点があります。
昨今のM&Aを見れば、拡大なのか、肥大なのか
もはや分からなくなっている感さえありますが、
あちらにはあちらの事情があるのでしょう、
最近は静観することにしています。
☞ ☞
閑話休題
正しい拡大には必ず「最適値の見極め」が必要、
僕はそう思っています。
よってunreveは最適な状態を保つため、
日本流「型の継承」としてお伝えしています。
その型とは言わば、ラインシステム、
多様な要素を有機的に統合したものです。
多様が一本のラインと成る。
雪の積もる道をみんなが歩くことで、出来た道のようなイメージです。
その「らしさ」を継承するための「守破離の仕組み」であり、
場であり、間であり、拍子であり、馴染み、散逸、加減、自己組織化といった概念があります。
本に折り目をつければ、勝手に開くように、
まずはそれを繰り返し体感すること、それが「守」の定義です。
(朝日デジタルより)
原因は、より高い賃金を求めて従業員が入れ替わり、
調理や接客などのノウハウが定着しなかったためだ、と。
確かに、いくら高性能なオペーレーションシステムがあっても
ノウハウの定着・蓄積がなければ水泡に帰す結果となります。
当たり前の事ですが、ノウハウを定着・蓄積するのは
開発部でも管理本部でもなく、「現場で働く人たち」です。
ここを備え付けのマニュアルと教育テキストで
管理できると思う事自体が間違っています。
国内でも人材不足で悩んでいる所の多くが
「オペレーション」ありきなんですが、
そんな欧米輸入のチェーン理論でやっていたから、
こぞってこの段階で躓いているんですね。
根っこ(本質的な原因)はもう分かってるはずです。
しかし、どうにか転換しようにも、母体は大きくなりすぎてるし
「根っこ(リゾーム)」が深いため、容易には変えれないのでしょう。
故に、簡単で短期的な「お金」で解決しているんですが、
現在、お金だけでは人が集まらない。
皮肉にも、彼らは価格で人(お客)を集める事に成功し、
価格で人(従業員)が集まらないのです。
結果、数千万をかけて作った店舗や
赤字ではない「黒字店舗」が「空箱」になっています。
☞ ☞
このように、国内にせよ海外にせよ、
撤退する背景には不完全な運営状態による、
「らしさの喪失」があります。
今回の件しかり、以前のユニクロしかり、
誤解を恐れずに言えば、資本がある企業が
拡大しようと思えば、いくらでもできます。
事業の拡大自体はさほど重要ではないのです、
DNAをいかに引き継ぐか、これが重要なのです。
そのDNA(らしさ)が、継承すべき暗黙知です。
それは、ブランドやマニュアルとは違う場所にあります。
この概念を失ったまま、規模だけを拡大する。
それはもう拡大ではなく、単なる「肥大化」です。
肥満体になって「成長した」とは言えません。
逆にそれは「劣化した状態」なのですから。
☞ ☞
そもそも拡大の欲求は、人間の根源的な本能です。
よって、誰もがこの欲求を持っています。
それを抑えろ、ではありません。
本来の拡大の定義は「成長」という事を理解するのです。
ブクブク太りたい、という人なんていません。
この加減の定義が日本流FCの最大のポイントです。
膨張や肥大化は、ただの「暴走」であって、
風船やバブルのように、やがて弾けるのは必然、
有限の世界である以上、必ず飽和点があります。
昨今のM&Aを見れば、拡大なのか、肥大なのか
もはや分からなくなっている感さえありますが、
あちらにはあちらの事情があるのでしょう、
最近は静観することにしています。
☞ ☞
閑話休題
正しい拡大には必ず「最適値の見極め」が必要、
僕はそう思っています。
よってunreveは最適な状態を保つため、
日本流「型の継承」としてお伝えしています。
その型とは言わば、ラインシステム、
多様な要素を有機的に統合したものです。
多様が一本のラインと成る。
雪の積もる道をみんなが歩くことで、出来た道のようなイメージです。
その「らしさ」を継承するための「守破離の仕組み」であり、
場であり、間であり、拍子であり、馴染み、散逸、加減、自己組織化といった概念があります。
本に折り目をつければ、勝手に開くように、
まずはそれを繰り返し体感すること、それが「守」の定義です。
2012/04/03
人間の条件
久方ぶりにハンナ・アーレントを読み返してみる。
人間の条件、革命について、全体主義の起源・・・
意外と、内容覚えているもんだなぁ。
ちなみに暗い所で暗い本読むと、
その反動で明るい性格になれますよ←大嘘
☞☞
朝から何杯もコーヒーを飲むのが日課のハンナ、
その習慣を守るため、学校の授業をボイコットし、
退学させられるような一面も。
そんなハンナが追及しようとしたもの、
それは「自由とは何か?」
彼女は、政治哲学をギリシャ的な公共性を元に、
自由を定義し、構築しようと試みた。
精神だけでは自由は掴めない、
精神と現象の関係性において、それは可能だ、と。
ニーチェとは違った、関係性においての自由、
ハイデガーとの出会いがそうさせたのでしょうか。
(ちょっと意地悪な疑問ですが)
ナチスの強制収容所から脱出し、
アメリカに亡命したハンナ、
奪われた自由、取り戻す自由によって、
人間の根源的な自由を問い続けたのです。
今日はそんな、ハンナ、話でも。
(ここからちょっと文体が堅くなります)
さて、題名には「人間の条件」とあるが、
ハンナは、条件そのものの定義はしていない。
彼女が言う条件とは、公共性(公共空間論)
という概念である。
パブリックにプライベート(自由)を組み合わせた、
政治システムの完成形(不死の活動共同体)、
これは二項同体であり、永続的な「活動状態」とは
リゾーム派生の流動的組織形態の概念に近い。
リゾームがヒエラルキーのアンチテーゼではないように、
二分し、別物としながら繋がるように、並列的な構造なのだ。
なぜ公共性や流動性が必要なのか?は
度々書いているので詳細は省くが、
全体(マジョリティ)を部分(マイノリティ)で
よって、ヒエラルキーのような階層にはリゾーム式は
分類(分散)という構造が必要であり、
それが「誰のものでもない」場所によって統合される。
そこに「米国の絶対原理」を持ってきているからこそ、
今の国際社会、グローバルは不和を起こしているのだ。
社会性はどうしても空気によって一体感を強要する。
なぜならば、社会性(空気)とは全体の結果である。
そんな必然的な抑制を生み出す社会の
空気感は、生まれた以上、どうにもできない。
ただ、それを変え「続ける」ことができる
「場所」があればいいのだ。
☞ ☞
公的領域をハンナは自由と排除への抵抗だとし、
それは一種の「テーブルのようなもの」だと定義する。
それは我々を結びつけると同時に、異なる存在として
分離させることができる「シンボル」なのだ。
つまり、公共領域とは全員が自由意思を持って
全員が参加し、決定する場所である。
世界(社会)と共生するというのは、この
「家族が集まるテーブル」に自主的に参加することで可能となる。
☞☞
自由は解放するだけでは余計に害悪となる。
これは革命後の国家を見れば明らかだ。
自由を手にする為には、各自がそれを自覚し、
建設的に参加する場の「状態維持」が必須なのだ。
これを古代ギリシャはポリス(最高善)として確立していた。
故にネグリは公共善を説く、確かにその場の決定が
社会性を持つ以上、前提には善がなくてはならない。
ではその「善」とは何か?
目指すべき「志向性」は何か?
個人が多様で自由なまま、集団として
成立する国家とはどういったモデルなのか?
これに答えられないままの解放運動が、今の革命なのだ。
今のこの国の自由(解放)を見れば、
「新しい時代」という大義だけで形成されている。
それが「参加しなことによる自由」である以上、、
極端な話、国際社会における北朝鮮の立場と変わらない。
しかし、そうすることでしか
自由を得られないのも事実である。
つまり現代システムの最大の欠陥は
テーブルが「父権社会」のまま変わっていない事、
ここが最大のボトルネックになっているのだ。
☞ ☞
世論(社会の空気)と個人の意志・意見の自由は
根本的に水と油の性質である以上、そこには境界線である「場」が必須となる。
それはロールズの無知のヴェールから派生する、
先駆的な正義ではなく、都度構成する状態の場ではないだろうか。
そんな共和政治体の代案基礎を持った者たちの革命、
これが真の革命だ、というのがハンナの意見である。
これはまさに、一神教であるキリスト教に対する
多神教の仏教が対立しているようにも見える。
そして、その統合素材には「中空無為」と、「場の形成」、
「志向性」の定義が必要ではないか、というのが僕の考えだ。
☞ ☞
革命によって既存構造を破壊しても、我々が共同体・
社会を形成する生き物である以上、必然的に
同じようなもの(またはそれ以下)が生まれる。
反による解放は永遠のいたちごっこなのだ。
既存の組織を変える、新しい代案。
それが一体いつ、誰が、どこで、生まれるのか。
それとも「すでに生まれているのか?」
と言う事で、次回はハイエクでも。
人間の条件、革命について、全体主義の起源・・・
意外と、内容覚えているもんだなぁ。
ちなみに暗い所で暗い本読むと、
その反動で明るい性格になれますよ←大嘘
☞☞
朝から何杯もコーヒーを飲むのが日課のハンナ、
その習慣を守るため、学校の授業をボイコットし、
退学させられるような一面も。
そんなハンナが追及しようとしたもの、
それは「自由とは何か?」
彼女は、政治哲学をギリシャ的な公共性を元に、
自由を定義し、構築しようと試みた。
精神だけでは自由は掴めない、
精神と現象の関係性において、それは可能だ、と。
ニーチェとは違った、関係性においての自由、
ハイデガーとの出会いがそうさせたのでしょうか。
(ちょっと意地悪な疑問ですが)
ナチスの強制収容所から脱出し、
アメリカに亡命したハンナ、
奪われた自由、取り戻す自由によって、
人間の根源的な自由を問い続けたのです。
今日はそんな、ハンナ、話でも。
(ここからちょっと文体が堅くなります)
- ハンナ・アーレント [DVD]/ポニーキャニオン
- ¥5,076
- Amazon.co.jp
さて、題名には「人間の条件」とあるが、
ハンナは、条件そのものの定義はしていない。
彼女が言う条件とは、公共性(公共空間論)
という概念である。
パブリックにプライベート(自由)を組み合わせた、
政治システムの完成形(不死の活動共同体)、
これは二項同体であり、永続的な「活動状態」とは
リゾーム派生の流動的組織形態の概念に近い。
リゾームがヒエラルキーのアンチテーゼではないように、
二分し、別物としながら繋がるように、並列的な構造なのだ。
なぜ公共性や流動性が必要なのか?は
度々書いているので詳細は省くが、
全体(マジョリティ)を部分(マイノリティ)で
破壊しても、やがて新しい全体が生まれ、固定するからである。
よって、ヒエラルキーのような階層にはリゾーム式は
分類(分散)という構造が必要であり、
それが「誰のものでもない」場所によって統合される。
そこに「米国の絶対原理」を持ってきているからこそ、
今の国際社会、グローバルは不和を起こしているのだ。
社会性はどうしても空気によって一体感を強要する。
なぜならば、社会性(空気)とは全体の結果である。
そんな必然的な抑制を生み出す社会の
空気感は、生まれた以上、どうにもできない。
ただ、それを変え「続ける」ことができる
「場所」があればいいのだ。
☞ ☞
公的領域をハンナは自由と排除への抵抗だとし、
それは一種の「テーブルのようなもの」だと定義する。
それは我々を結びつけると同時に、異なる存在として
分離させることができる「シンボル」なのだ。
つまり、公共領域とは全員が自由意思を持って
全員が参加し、決定する場所である。
世界(社会)と共生するというのは、この
「家族が集まるテーブル」に自主的に参加することで可能となる。
☞☞
自由は解放するだけでは余計に害悪となる。
これは革命後の国家を見れば明らかだ。
自由を手にする為には、各自がそれを自覚し、
建設的に参加する場の「状態維持」が必須なのだ。
これを古代ギリシャはポリス(最高善)として確立していた。
故にネグリは公共善を説く、確かにその場の決定が
社会性を持つ以上、前提には善がなくてはならない。
ではその「善」とは何か?
目指すべき「志向性」は何か?
個人が多様で自由なまま、集団として
成立する国家とはどういったモデルなのか?
これに答えられないままの解放運動が、今の革命なのだ。
今のこの国の自由(解放)を見れば、
「新しい時代」という大義だけで形成されている。
それが「参加しなことによる自由」である以上、、
極端な話、国際社会における北朝鮮の立場と変わらない。
しかし、そうすることでしか
自由を得られないのも事実である。
つまり現代システムの最大の欠陥は
テーブルが「父権社会」のまま変わっていない事、
ここが最大のボトルネックになっているのだ。
☞ ☞
世論(社会の空気)と個人の意志・意見の自由は
根本的に水と油の性質である以上、そこには境界線である「場」が必須となる。
それはロールズの無知のヴェールから派生する、
先駆的な正義ではなく、都度構成する状態の場ではないだろうか。
そんな共和政治体の代案基礎を持った者たちの革命、
これが真の革命だ、というのがハンナの意見である。
これはまさに、一神教であるキリスト教に対する
多神教の仏教が対立しているようにも見える。
そして、その統合素材には「中空無為」と、「場の形成」、
「志向性」の定義が必要ではないか、というのが僕の考えだ。
☞ ☞
革命によって既存構造を破壊しても、我々が共同体・
社会を形成する生き物である以上、必然的に
同じようなもの(またはそれ以下)が生まれる。
反による解放は永遠のいたちごっこなのだ。
既存の組織を変える、新しい代案。
それが一体いつ、誰が、どこで、生まれるのか。
それとも「すでに生まれているのか?」
と言う事で、次回はハイエクでも。