日本社会では「大きいもの」や「大きいこと」が
いまだ罷り通っている。
とくに大企業は生き延びるためにはひたすらM&Aをしつづけて、
巨体を虚体にしながらも「ビッグ」を維持しようとする。
よせばいいのに、それを四半期ごとにチェックする。
中略~
すでに「大きいもの」は偏向しているか、
荷重に喘いでいるか、衰弱しつつあると見るわけだ。
中略~
もはや「大きいもの」が信用できるとはかぎらなくなったのだ。
大軍事、大原発、大農業、大銀行、大証券、大企業、大コンサル、大流通、大団体、大新聞、大代理店‥‥。
引用終了
ちなみにこれが題材とした著書「ビッグの終焉」、
「大きなもの好き」のアメリカ発というのがまた興味深いです。
- ビッグの終焉: ラディカル・コネクティビティがもたらす未来社会/東洋経済新報社
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unreveのFC概念にも通じることから
今日はそんな所からの小話でも。
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さて僕自身、これを手にとって読んでいないので、
都合のよい解釈をしているかもしれませんが、
新しい時代の組織形態は、すでにその概念から
可視化レベルにまで進んでいるんじゃないか、と感じます。
以前予想したように、あともう数年もすれば
FCの形態は大企業だけの特権ではなく中小にまで浸透するでしょう。
問題はその少数FCが「小よく大を制す」には、
その質において特化しなくてはいけない、と言う事です。
だからこそ、各自が主体性を持った「少数精鋭」であって、
これが「少数緩鈍」ではただの談合、仲良しグループです。
さらに、一部が引っ張るだけの構造では
ヒエラルキーのフラクタルにすぎません、大事なのは加減の定義です。
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思えば僕が4年前、このようなFC構造を持った
「小さくても最適なFC」を提唱した際、同業者からかなり批判を受けてました。
「フランチャイズは短期間で拡大する為のものですよ」と冷笑されたり、
「小さいFCなんて、全く意味がない」と言われました。
ただ今現在、その立場が変わってきたのを感じます。
アルビン・トフラーの第3の波は正しく押し寄せている、と。
・・・・リンク張ろうとしたけど、この記事も消えてますね(ノω・、)
兎にも角にも、もう少しです(笑)
ひっくり返す為には(数ではない)実績が必要です、
クライアントの皆さん、共にティッピングポイントを目指しましょう^^
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閑話休題
本書にあるラディカル・コネクティビティとは
電子ネットワークの「根っこ」(radical)で互いに繋がる
相互連接力(connectivity)だ、とあります。
つまり少数が「精鋭」となるためには
積み上げ式の階層ではなく流動性を内包したものでなくてはいけない。
それがリゾーム派生であり、組織論において
その非線形の最適な状態(間・場・拍子・あそび)を提唱しています。
「最適化」、これが一番難しい部分ですが、
これが持続性・継続性であるサスティナビリティを内包しているのは間違いありません。
最適化はサーモスタットの役割を持ちます、
つまり流動化するのです。
先ほど書いたように、階層型は積み上げる事はできますが、
固定されるが故、流動性は乏しく出る杭と見なされがちです。
逆にベクトル(または志向性)だけを枠とした組織は
積み上げる事やトップダウンには不向きな反面、その流動性は高い。
また、前者は拡大する為の吸収・合併が常に必要ですが
派生式はその自主・自生的な側面において最適に「浸透する」というニュアンス(散逸)に近いです。
両者を比べると大きな違いはその「境界線」であり、
それが分別のないフラットな形態を生み出すのでは・・・
というのを現段階、概念の定義としています。
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そんな流動性を保つためにも
「言語」を使って「対話」しなくてはいけません。
数字は客観性を持つ事から万人に共有できます、
しかし数字や理論だけではリゾームは派生しません。
例えば「前年比120%」と言えば誰もが同じ認識ですが、
「あなたが好き」と言えばその意味は人によって異なります。
その千差万別な「状態」を崩さない寛容さに加え、
数字とは別の「係数」を生み出す必要があるのです。
感情がリゾームのトリガーである以上、
数値・形式的だけのマネジメントから脱却しないといけません。
その感情でさえも数式化しようと試みるのは問題外です、
それはもう二進数の「01」と変わりません。
そして、だからこそ、優秀な人材が辞めていくのです。
選んでいるのは企業ではありません、伝わってますでしょうか。
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