2012/04/09
リゾームと色相環
我々が持っている自信とは、内的動機の主材料であり、
それはモチベーションとは意味が全然違う。
そもそも自信があるからこそモチベーションが上がり、
自信があるからこそ、行動や決断に迷いが無いのだ。
仕事だけでなく、
人生においてはこの「自信=信念」で全てが決まると言っても過言ではない。
自信ひとつで認識がガラリと変わるのだ、
不可能を可能にし、非常識を常識とする。
自信がない人は他人に振り回される。
己の意見の正しさを己に認める事ができないからだ。
なぜ認められないか?
それは自分に正解が用意されていないからである。
そもそも意見や選択とは、どれもが正しくどれもが間違っている。
微分方程式である以上、絶対はない。
選択と決定は周囲の意見や社会通念、
通説、常識から判断するのが一般的なのだが、
それは多くの意見であり、マジョリティなだけである。
マジョリティは変化する。
なぜならそれは「部分的」を超えることがないからだ。
つまりマジョリティは「ミカンの意見」である、
そこではリンコの意見は当然「異論」となっているだけだ。
仮にあなたがミカンだとすれば、その意見は正しい。
絶対的な正解でもかまわない。
しかしあなたがリンゴである場合、それは正しくはない。
だからといってその意見が間違っているか、といえばそうではない。
これが覚えるべき第一の原則である。
本来、意見とは立場や環境など、特性の数だけあるのだ。
それを相手に合わせる必要はないし、その意見は我儘ではない。
我儘というのは自分の意見を「相手に押し付ける」事である。
今の世の中は「協調性と同調性」が同じ意味で使われている。
「世間の我儘」を全員で受け入れようとしているのだ。
当然人の精神は変形するし、奇形する。
それは美徳ではなく、ただのストレスだというのは言うまでもない。
本来、意見とは水と油の場合がほとんどである、
それをやれ油が正しいとか水が正しいとかで争っているのが現在の風潮だ。
「同じ意見の人もいるだろう」と思うだろうが、
それは、ただ「水と海水」のように属性が近いだけである。
例えば、好きな歌手が同じだとしても、好きな曲まで同じではないし、
仮に同じ曲が好きだとしても、テンポや部分まで全く同じ人なんていない。
意見が同一しないのは自然なことであって、
両親媒性物質のような対立した意見を混合させる媒体はないのである。
余談だが宇宙では水と油は混ざる。比重がないからだ。
悟りを端的に説明するならば、比重(差)を取った状態(一如)なのだろう。
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閑話休題
我々コンサルの最終的な目的はクライアントに自信を持たせる事だ。
意見を押し付けたり、一から十までやるコンサルはコンサルではない。
それは受注、請負業の仕事であって役割が違う。
悲しいかな、今の時代では自信は勝ち得るものであり、
場合によっては戦う時もある。
対立する意見を持った相手が同調圧力を強いる限り、それは続く。
つまり相手は排除か修正を強いているのだ。
ミカンの意見が正しいと、どうリンゴに納得させるというのか?
リンゴの樹はミカンの実がなるとでも言うのだろうか?
前回に続き書いてしまうが、一番やってはいけないのは同調である、
これが自信が失われる最大の原因なのだろう。
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今の同調社会は自信の欠如である、
今の若者が希望を持てないのは、何者にもなれないと思っている。
もちろんそんな事はない。
自分を知りさえすれば、自然に自信や希望や動機は起こるもの。
今の資本主義、つまり経済システムで生きている我々は
同調せざるを得ない環境にいるが、
現在、組織はどんどん縮小化されるか統合しされているかに向かっている。
属性をとことん無視するシステムか、属性ごとに分類しているか、である。
これだけコミュニティや異業種交流、草の根運動が増えたのも
近い属性同士が集まりだしている証拠だろう。
今までバラバラなものを会社と言う一つの箱に詰め込んでいたのが
崩壊し、新しく「再結合」されているように私には映る。
また、同じ属性が集まるのではなく(今はそれに近いが)
色相環の「補色」、五行の「相生・相克」を組み合わせたようなイメージである。
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