2016/02/05

日本流リゾーム⓸




日本流リゾーム、四回目となります。




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さて、この神話には国家成立の意義や
アイデンティティだけでなく、人生観や
死生観が書かれているんですが、



多くが研究対象として扱ってるもんで、
現在は情報だけが膨大になってますね。



いつの時代も合理派と情緒派とでは
調べ方が違ってくるもの、



例えば「稗田阿礼は男か女か?」とか
「日本書紀と比べ、どうなのか」とか。



実在かどうか調べ、体系化させるのが学者の
仕事ですから、追及すればどんどん高尚に
なってしまうのは分かりますが、



そうなると俗世界から離れた
象牙の塔になってしまう、これじゃあ本末転倒です。



本来は本質を見出し、子供にでも分かるような
スタイルに仕上げるってことが、大事なんじゃないですかね。



前置きが長くなりましたが、本題へ移ります。
インテリさんのツッコミどころはたくさん、たくさん
あるでしょうが、そこはまあご勘弁ください。









さて、古事記に出てくる神様は
西洋のような絶対的な善ではありません。



スサノオのように悪さもすれば
イザナミのように恨んだり、イザナギのように逃げ出したりします。


まるで
神様というよりも「人間」のような。
否、人間そのものじゃないでしょうか。




そんな古事記に書かれている神の心を
宣長はごく自然な行為(真心)と呼びました。
産巣日の神によって作られた、本来備え持った心である、と。



つまり真心には、全ての要素が入っているんですね。



現在の真心は「清く、正しい」イメージですが、
古事記の(宣長)の説く真心はそうじゃない、



良さと悪さ、賢さと愚かさ、繊細さと鈍感さ・・・



そんな様々な心の現れを指している。
絶対矛盾が自己同一してるんです。



宣長は古事記に書かれている善いことや
悪いことは神様の真心でやっているのであって、



そんな生まれついて持っているものを
変えることのほうが真心を失った状態である、と言ってるのです。



☞☞☞




こう書くと当然、我々は納得できません。
「じゃあ誰だって自分勝手にやっていいのか」と。



もちろんそういう意味ではなく、簡単に言えば
嬉しいときは嬉しいと喜ぶ素直な心」のことです。



さみしいときはさみしく、つらい時はつらい。
怒るときは怒り、泣きたいときは赤子のように泣く、




常に笑顔を絶やさずワクワクしたり、
どこぞの議員みたいに、頭を使って
「ウソ泣き」するんじゃない、と(笑)



(unreve流に言えば)
自己の中心から自然派生的に起こる感性。



それこそ、様々な価値判断基準によって
動いてない、純粋な心の働き(真心)なんです。



☞☞



ただそれは現代では発見できず、
発見しても掴むことができにくいものです。



なぜなら(僕を含め)大半が社会という「枠」と
今まで続いている「常識」を無意識に受け入れているから。



その状態で「ありのままの自分」を出しても、
それは「本音と言う名の」合理損得勘定、理性の世界でしょう。



だから自分らしさを出せと言う類の話には
成功とかお金などの「報酬」があるじゃないですか。



しかし古事記にある「真心」はそうじゃない。
客観的な理由なんてないんです。




例えば「ありのままを出そう」とすると
「良心の呵責」が起こる時もあるでしょう、



それはブロックでも投影でもありませんよ。
かといって、真心かどうかも分かりませんけどね(笑)



それが分かるのは自分だけです。




現在、「常識や道徳からくるもの」なのか、
「本当に自分の心からくるものなのか」が
自分で判断できないから、人に尋ねてるんですが、




聞いた時点ですでに「捉われる」以上、
学んでどうにかなるもんじゃないんですね。





長くなったので続きます(゜゜)







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