2012/11/11

習い・稽古・工夫

暗黙知についての考察。


実際の所、形式化できない部分である「暗黙知」を
言葉で表現するのは、大変難しい。


なぜなら、それを5感覚で認識・判断し、行動するまでの
理論体系を表現する為には言葉による論理では非常に甘く、


さらにその認識には、事実から乖離した各人の思い込みや
バイアスが大小差はあれ、多少なりとも含まれているからです。


そもそも実際に起きている事実をそっくりそのまま
言語化し、記述すること自体が不可能であるのは言うまでもありません。


それをいかに伝えるか、
歴史上の「求道者」を紐解けば、その知の結晶を借りる事ができます。



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新陰流では形(型)の事を「勢法」というそうです、
つまり、形稽古と呼ばれるものは、「かたち」自体を学ぶのではなく、
その動きの中にある武術の理論を学ぶ方法だというのです。 


「形」をひたすら稽古する事で動きの本質を学び、
それを習得し、最終的には自由・自在に動ける身体を追求する、


まさに「守破離」の精神ですね、
あらゆる道において、最終的な到着点は「自由」なのでしょう。



勢法にもう少し触れますと、そこには心身の姿勢「身構え」や
手足の働きを練る事「手足」、


そして太刀筋を使い覚える事「太刀」の三点に重きを置き、
勢法を実践することで、間積り・拍子を体で覚えます。


それは言わば「感覚的な心持ち」を経験する事であり、
日々の「習い・稽古・工夫」は欠かせないのはその為です。


最終的に「自分の技が絶対に正しい」と思えるまで・・・・。
そこへ至るにはやはり、実践による経験則が必要なのでしょう。


つまり端的に語る事が不可能な働きである以上、
観念のうちにあるのではなく、行為そのものの中から掴むのです。


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摂理と書くと大げさでしょうが、
(彼らは)その自然の摂理に従うことを目指したように感じます。


それは、生存価値の善悪や正誤に左右されるものではなく、
その価値は、続けること自体にある。


また、見えないそれら「心の型枠」を
ギリギリまで論理的に表し、示すことが
暗黙知を見つめる人の役割かもしれませんね。



これも偏に心の時代だからこそ・・・
オタクならではの楽しみでもあります^^



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