2016/02/09

日本流リゾーム⑥




日本流リゾーム、六回目。




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前回は素直な本情を感じるままに行動することが
人間の本来(真心)であると、お伝えしました。



誰しもが持っている愚かしさや女々しさを
素直に認めることは大事なこと。
それが生きた智慧にもなるんです。



しかし、この国はいつの間にか「恣意的な正しさ」を
追い求めるようになってしまった。



例えば宣長がいた当時では仏教的な真理(彼岸)や
儒教的な善悪(道徳)が世の中の基準となっています。



人に優しく、利他の精神で、苦行に耐え、
聖人の道を歩き、欲望を消し去り、感謝を忘れず。。。。。と




宣長は、そんな道徳・規律によって真心を抑制して
無理に生きていれば、いつか抑えきれなくなり
激しい情に流されてしまう、と批判します。



まさに建前である儒仏教的な価値意識が
破綻し、かえって背徳的な行為に
向かってしまうことを、知っていたのでしょう。
(僕はそれを「揺り戻し」と捉えています)



しかも極から極へのシフト(白黒)ですから
今までを全否定し、反対を全肯定してしまうんです。



しかし本来はどっちにもないわけでしょう。




漫画で善人だった人が裏切られて
悪人になってしまい、主人公によって
また改心する・・・・みたいなやつありますけど、



それと似たようなものじゃないかしらん。
根は変わらないもんです。



☞☞




宣長はそんな人たちに
「自分の心に嘘をつくな!」って言っているんです。



聖人だろうが凡人だろうが、古今東西
(古も今も、唐も天竺も、此国も)同じように
もっているものを歪めるんじゃないよ、と。



それを認めることができる人が「心ある人」であって、
理屈ばかりで知ろうとしない人や、
鈍感で分からない人は「心なき人」なんです。



例えば、愛する我が子を失った時、母親は
なげきにしづみて、涙にくれまどふ」のは当然であって、



そこでその感情を抑え、とりみださずに
悲しみを表にあらわさないのは建前の心であると。




当然、仏教の煩悩(欲望)も宣長は肯定しています。



みなみな富貴をねがひ、貧賤をいとひ、美食を悦び、
美味をむさぼり、楽をこのみ、苦をいとひ、福をねがひ、
禍をにくむ」という利欲は誰しも持つ心であって、
それを否定し「清貧」を好むのはおかしい、と。




なるほど。商人が清貧を勧める仏教より、
宣長の教えを聞きにきたのも納得ですね(笑)




まあ、普通に考えたらそうでしょうな。
誰だって「病気」より「健康」を選ぶもの。



これは古今東西、変わりませんよね。



☞☞



とは言え、宣長は欲望を全て肯定はせず、
本心を抑えることも完全に否定していません。



ここが間違えやすい部分ですね。
以前書いた自由と放縦の違いでもあります。



歌は情よりいづるものなれば
欲とは別也



和歌とは真心を歌い、味わうものですから
欲と真心は別物だよって言ってるんですね。



ん。長くなりましたな。
次回に続きます(゜゜)






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