2016/02/10

日本流リゾーム⑦



日本流リゾーム、七回目となります。




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現時点で古事記を書いているのか
宣長を書いているのか小林を書いているのか
わからなくなってきましたが(笑)



共通して言えることは、我々の自然で素朴な
感覚を大事にしなさいよ、ということでしょう。




根あるがゆえの花、
その根を明らかにすることは大切なことですからね。




さて、前置きはこれくらいにして、
そろそろ本題へと移りますか(゜゜)






宣長はこの国の文化、精神性は女々しいもので、
それを和歌として表現してると言います。



大和の心は理屈で善悪をキッチリと分けるような
勇ましいものではなく、あいまいで移ろいやすいものなんです。



なるほど、
「勇ましいことは滑稽である」と小林は言ったけれど、
多分にそれは世間体用に取り繕った心であるということでしょう。



つらいもんはつらい。
それでいいんです。




この国はそんな清濁併せ持った真情を
そのままに認めてたからこそ、意見の
異なる相手でも通じ合うことができました。



例えばこの国は「対話」で国家を統合してますが、
そんなこと出来たのは、この国以外ありません。



もちろん国譲りの様に政治的駆け引きのようなものも
中にはあったのでしょうが、儒教や仏教のように
「聖なる教え」を相手に説くものじゃなかったんです。



つまり相手の主体性を奪ったり、
自分の主体性を失ったりはしていないんですね。



☞☞☞



自己の主体性を失って協調する(同)や
力で相手を屈服させるのは実に容易いけれど、



自己の主体性を保ちながら
協調するのは非常に難しいもの。



裸の自分を出す素直さと、それを認める
寛大さがなくてはいけませんからね。



逆を言えば、この国はそれが出来ていたということ。



その証拠に、この国では大規模な
宗教弾圧(戦争)は起きてません。



七福神だって恵比寿さん以外、海外ブランドですよ(笑)
信仰する神だって仏と融合(神仏習合)できるんです。



そんな様々なものを取り入れ、調和させることに
非常に長けているのは、異質に対する寛容さであって、



その精神は神代から続いているのだと
古事記には書かれているのです。



wikiより引用



しかし他の国はそうじゃない。



よその神様は全知全能で絶対正義、
それを信仰する人からすれば譲れない。
どうしても「一位」を獲得しないといけないんです。



だから世界の歴史は
「宗教戦争の歴史」になってるでわけでしょう。



自分たちが正しいと、和さずに「同じた」集団が
いつもドンパチやってますが、



そんな派閥的な利害があると素直な
人間同士の付き合いなんて、できるわけありません。



仲間内では信頼されている人であっても、
対立する相手からは「悪人」になってしまいますからね。



それが相手ではなく所属する集団の
イメージで判断していることだということに
気が付かないんです。







もちろん価値観の合う仲間を作るのは
素晴らしいことです。



しかし、何かを啓蒙しようとする団体は
必ず所属するための条件があるんです。




僕はそんな小さな会議室でしか通用しない
真理なんて、間違っていると思うんですね。




だから会話ではなく対話をやっていこう、と。




もちろん、まだ上手くは出来ないけど、
僕はそうやって相手と接して行こうと決めてます。




失礼、最後は脱線話でしたな(゜゜)
てなわけで、次回に続きます。





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