早いもので今年もあと半月となりました、
師走ですね(^▽^;)
さて、FC業界は現在、新しい時代に入っています。
第二世代型というべきFC本部が増えているのを肌で感じます。
第一次世代は欧米流、かの大手支援会社が作ったFCのように
(全てではありませんが)とにかく質より量。
短期集中と過大投資でドンドン開発。
現在FCは乱立し、スクラップ&ビルド、再編を繰り返しています。
そんな中、質の悪い本部は淘汰されたり
本部倒産しています、ネガティブな業界イメージも浸透しました。
「楽に儲かりますよ」と過激な煽り文句が
ネットを賑わしている風景は今も変わりません。
これは第一次世代のFC開発の限界を意味しています。
何回も書きますが、楽に儲かるFCなんてありません
FCとは成功の確率が高い業態の提案であり、
5年後の生存率70%というちゃんとした裏付けがあるのです。
それだけ覚えておいて下さいね^^
☞ ☞ ☞
さて、第二世代は量よりも質。
コストを抑え、地元に密着し長年続けれるような
コンテンツを持っています。
仕事に対する苦労もちゃんと伝え、
信頼を基軸とした関係性を重視するFC本部です。
今回ご支援しているスクルド&カンパニー様は
間違いなく第二世代。
また、現在の待機児童の問題を解決する事から
社会への貢献度も高い業態となっています。
☞ ☞ ☞
松岡正剛氏によれば、日本には「稼ぎ」と「務め」という、
ふたつの労働の観念があったといいます。
かつては「かせぎ」がたくさんあっても
一人前と認められませんでした。
もうひとつの「つとめ」はいくら稼いでいようと関係なく、
非営利的な側面を持ちます。
例えば堤防の決壊、火事、凶作、干害、死人が出た、
というとパッと出て行ってふんどし一丁で働く。
これが「つとめ」だそうです。
両方ができて、はじめて「おとな」として認められる。
そんな文化が日本にはあったのです。
松岡氏は人間を見る目、あるいは社会人を見る目が
「かせぎ」型になっているといいます。
売上高、経常利益、収益率といった
「かせぎ」のデータだけ出している。
これでは子供たちに労働の価値を伝えようとしても
なかなか伝える事ができません、
スクルド社のFCは、
「カセギとツトメ」を同時に兼ね備えています。
保育園のFCと聞くと、効率化や合理化をイメージしますが、
当然、そんな所が口コミで満員になる訳がありません。
自立型の教育である「モンテッソーリ」を取り入れ、
今まで保育園が手を付けていない「食育」にも積極的です。
FCのイベントで海で地引網を使って魚を取って、
その場で調理して食べた話を楽しそうに話しているのを見て、
ここは本当に子供の事を考えているんだなぁ、と
嬉しくなっちゃいました^^
てなわけで来年初頭、福岡で説明会を行います^^
場所は決まり次第、またアナウンスさせてもらいます♪
2011/12/13
2011/11/14
未完成の美
こんにちわ、坂口ですo(^▽^)o
「おもてなし」って言葉が最近流行ってますね。
この「もてなし・しつらえ」の精神は
茶道や禅からのもの、道教や禅も矛盾を
含んだものを同一させる非対称の秩序です。
なるほど、だからこそ日本の「茶道」なのでしょう。
てなわけで今日はお・も・て・な・しの小話でも(笑)
☞ ☞ ☞
近代日本の思想家である岡倉天心は
茶道芸術の神髄であり、東洋の美学と言える
「茶の本」をニューヨークで出版しました。
それは「間」としての空間や広がり、間隔、余白空所、場、ゆとり、
そして遊びとしての隙間など、日本流ならではのものです。
茶器や茶室を見れば分かるのですが、
全てが不均等であり、釣り合いが取れていません。
逆にそれこそが茶道の赴きであり面白みであり、「味わい」なのです。
味とは妙味の出て来るもの、不完全なものに対する美の感覚。
茶道の開祖である千利休は黒楽茶碗を
特に好みましたがそれは黒(陰)が
始まりであり、終わりでもあるから。
漆黒は色相環でも全てを網羅しています。
よって茶の色が一層引き立つのです。
表面にはゆがんだ凹凸があり、いびつともいえる茶器、
これが中国茶器のように、完璧に均衡が取れたものは
茶道には向きません。真面目すぎたそのフォルムからは
遊びやゆとりがないので「味」が湧いてこないんですね。
ありのままで飾り毛のない簡素なものこそ難しいのでしょう。
☞☞
茶室と露地の関係もまた独特な空間です。
決して閉め切られることはなく遠く深い
永遠へ導く開口が存在するかのよう、
茶道の空間は、茶室だけでなく、外の露地と
呼ばれる庭と一体に仕組まれている。
露地は茶室の中から眺めるための庭ではなく、
茶室へ通る道であり、露地に入った時にはもう茶の湯は始まっていると言います。
成就そのものが目的ではない。
完成を意図的に排除し、想像の働きによって
完成させる状態を保つ、これが茶道の「未完成の美」です。
たかが茶一杯、されど茶一杯。
数奇の成せる業ですね~。
「おもてなし」って言葉が最近流行ってますね。
この「もてなし・しつらえ」の精神は
茶道や禅からのもの、道教や禅も矛盾を
含んだものを同一させる非対称の秩序です。
なるほど、だからこそ日本の「茶道」なのでしょう。
てなわけで今日はお・も・て・な・しの小話でも(笑)
☞ ☞ ☞
近代日本の思想家である岡倉天心は
茶道芸術の神髄であり、東洋の美学と言える
「茶の本」をニューヨークで出版しました。
それは「間」としての空間や広がり、間隔、余白空所、場、ゆとり、
そして遊びとしての隙間など、日本流ならではのものです。
- 英文収録 茶の本 (講談社学術文庫)/講談社
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茶器や茶室を見れば分かるのですが、
全てが不均等であり、釣り合いが取れていません。
逆にそれこそが茶道の赴きであり面白みであり、「味わい」なのです。
味とは妙味の出て来るもの、不完全なものに対する美の感覚。
茶道の開祖である千利休は黒楽茶碗を
特に好みましたがそれは黒(陰)が
始まりであり、終わりでもあるから。
漆黒は色相環でも全てを網羅しています。
よって茶の色が一層引き立つのです。
表面にはゆがんだ凹凸があり、いびつともいえる茶器、
これが中国茶器のように、完璧に均衡が取れたものは
茶道には向きません。真面目すぎたそのフォルムからは
遊びやゆとりがないので「味」が湧いてこないんですね。
ありのままで飾り毛のない簡素なものこそ難しいのでしょう。
☞☞
決して閉め切られることはなく遠く深い
永遠へ導く開口が存在するかのよう、
茶道の空間は、茶室だけでなく、外の露地と
呼ばれる庭と一体に仕組まれている。
露地は茶室の中から眺めるための庭ではなく、
茶室へ通る道であり、露地に入った時にはもう茶の湯は始まっていると言います。
成就そのものが目的ではない。
完成を意図的に排除し、想像の働きによって
完成させる状態を保つ、これが茶道の「未完成の美」です。
たかが茶一杯、されど茶一杯。
数奇の成せる業ですね~。
2011/11/03
怠慢と頽廃の違い
今日は怠慢と頽廃の違いについて。
組織の規模が拡大している所は
一度チェックされてみてはいかがでしょうか。
「組織の隠蔽体質によって今回の不祥事が・・・」
といった報道をよく見ますよね。
こういった不正行為は、組織内の怠慢から
起きている場合が多いのです。
つまり「良くないと知りながら」、
内部で歯止めが利かない状態が怠慢なのです。
とは言え、この状態ではまだ組織内に
まだ健全性が残っています。
汚職、権力の乱用、えり好み人事評価・・・
そんなモラルの低下はどこでも起きますが、
正しい理念が、根っこ(リゾーム)まで
浸透していれば、修正可能な領域です。
無能な人間がトップになれば、すぐさま
その地位を追われ、汚職や不正は内部から
告発・摘発されるでしょうし、
赤字となれば、全社員に危機感が募り、
受けた損害を取り戻すような力が「自然に」働くでしょう。
家と同様、一時的な被害を受けたとしても、
基礎がしっかりしている限り、修繕できるのです。
☞ ☞
問題は「頽廃」です。
頽廃とは、モラルの低下云々ではなく、
「何が悪いか自体、分からなくなる現象」のこと。
当たり前のことが当たり前にならない。
つまり屋台骨自体が腐敗してしまっている、
これが頽廃的な組織の特徴です。
言わば、精神的な腐敗。
過激派政治団体や暴力団、オウムのような
宗教団体がその典型的な例ですが、
一部のメディア機関や国家官僚組織もまた、
頽廃していると言えますし、ブラック企業も
組織の風土が頽廃している場合があります。
いくら忠告しても、向こうには
確かな「正義」を持っているのが分かるでしょう。
そこで、さらに資源分配が加われば、
ますます強化されてしまいます。
前回書いたように、個人の価値観重視は
組織運営において、取り扱いが難しいのです。
☞ ☞
このように、間違った場の空気を受け、
間違った実践を一生懸命していたら
当然、間違った結果になります。
戦時中は上層部が「間違った空気」に
気付かなかった、つまり頽廃していたのです。
そうならない為にも、こういった「場の理論」は
方法論として、構築しないといけない。
ほったからかせば、自然に起きるのが
怠慢と頽廃ですので、積極的に
歯止めの仕組みを取り入れましょう。
詳しくは「弥栄モデル」を参照ください^^
組織の規模が拡大している所は
一度チェックされてみてはいかがでしょうか。
「組織の隠蔽体質によって今回の不祥事が・・・」
といった報道をよく見ますよね。
こういった不正行為は、組織内の怠慢から
起きている場合が多いのです。
つまり「良くないと知りながら」、
内部で歯止めが利かない状態が怠慢なのです。
とは言え、この状態ではまだ組織内に
まだ健全性が残っています。
汚職、権力の乱用、えり好み人事評価・・・
そんなモラルの低下はどこでも起きますが、
正しい理念が、根っこ(リゾーム)まで
浸透していれば、修正可能な領域です。
無能な人間がトップになれば、すぐさま
その地位を追われ、汚職や不正は内部から
告発・摘発されるでしょうし、
赤字となれば、全社員に危機感が募り、
受けた損害を取り戻すような力が「自然に」働くでしょう。
家と同様、一時的な被害を受けたとしても、
基礎がしっかりしている限り、修繕できるのです。
☞ ☞
問題は「頽廃」です。
頽廃とは、モラルの低下云々ではなく、
「何が悪いか自体、分からなくなる現象」のこと。
当たり前のことが当たり前にならない。
つまり屋台骨自体が腐敗してしまっている、
これが頽廃的な組織の特徴です。
言わば、精神的な腐敗。
過激派政治団体や暴力団、オウムのような
宗教団体がその典型的な例ですが、
一部のメディア機関や国家官僚組織もまた、
頽廃していると言えますし、ブラック企業も
組織の風土が頽廃している場合があります。
いくら忠告しても、向こうには
確かな「正義」を持っているのが分かるでしょう。
そこで、さらに資源分配が加われば、
ますます強化されてしまいます。
前回書いたように、個人の価値観重視は
組織運営において、取り扱いが難しいのです。
☞ ☞
このように、間違った場の空気を受け、
間違った実践を一生懸命していたら
当然、間違った結果になります。
戦時中は上層部が「間違った空気」に
気付かなかった、つまり頽廃していたのです。
そうならない為にも、こういった「場の理論」は
方法論として、構築しないといけない。
ほったからかせば、自然に起きるのが
怠慢と頽廃ですので、積極的に
歯止めの仕組みを取り入れましょう。
詳しくは「弥栄モデル」を参照ください^^
2011/11/01
愛煙家
どーも、坂口です。
11月に入りましたね、霜月です。
というか、あんまり寒くならない
ここ福岡。
今年は夏が涼しかったので
冬は暖かくなるんでしょうかね。
今も長袖一枚でブログを書いてます。
☞ ☞
さて、僕はパソコンに向かう時、
必ずタバコとコーヒーがセットです。
これがないと何もする気にならない(笑)
メディアに影響されてか、
喫煙者(愛煙家)の肩身はどんどん
狭いものになってますな。
もっとも強力なメッセージといえば
「肺ガンになる」というものなんですが、
過去40年間の「喫煙者」と「肺ガン死亡者」
のグラフをみると、喫煙者はどんどん減って
半分になっているのにも関わらず、
肺ガンで死亡している人は「10倍」になってます。
これはイギリスでも同じ結果です。
さて、これは何故でしょう?と。
都合のいい対比データですから、
一概には言えませんが、
一説では、ドーパミン、セロトニンなどの
脳内活性物質の状態をコントロールするのが
ニコチンだと言われます。
タバコを好むインディアンは平和主義者
である反面、禁煙者の多いアメリカでは攻撃的です。
つまり、体の因果関係で言えば喫煙は
間違いなく、体には良くないんですが、
脳内、全体の側面で言えば、そうじゃない、と。
そう考えれば、ロジカルでは説明できない
のではなく、「隠れた変数」が抜け落ちてる、
そう思った方が、よっぽど論理的です。
肺がんになるから吸うな、じゃなくて
「煙と匂いが嫌い」でいいじゃないですか(笑)
☞ ☞
ここでちょっと仕事の話に
なるんですけどね、
僕が、FC展開しようとする際、
その材料に売上データを重視しないんです。
もちろん、大赤字の店はしませんが
競争優位性とか、成長率とかは
ほとんど無視します。
なぜ既存の売上とか成長性とかを
見ないか?というと、「環境」という変数がない。
その変動数は予測から排除するか、
「誰でも使える数字」に変換してるだけです。
つまり、それを模倣した他社が
「今の環境下ではいない」、という前提になる。
仮に、そこと類似したビジネスモデルが
知らない所でどんどん広がっていたとすれば、
ブルーオーシャンでオンリーワン
戦略だったのに、いざ蓋を開けてみれば
競争原理に巻き込まれてしまった、と。
サラリーマンの給与みたいに
毎月決まった日に、決まった額が
入るなんて、ありえませんからね。
☞
タバコの件にしてもそうですが、
そこには肝心要の「流動する実体」がない。
これを仮説検証することが、
大事ではないでしょうか。
まっ、愛煙家の正当化と言われたら
それまでですけどね(笑)
11月に入りましたね、霜月です。
というか、あんまり寒くならない
ここ福岡。
今年は夏が涼しかったので
冬は暖かくなるんでしょうかね。
今も長袖一枚でブログを書いてます。
☞ ☞
さて、僕はパソコンに向かう時、
必ずタバコとコーヒーがセットです。
これがないと何もする気にならない(笑)
メディアに影響されてか、
喫煙者(愛煙家)の肩身はどんどん
狭いものになってますな。
もっとも強力なメッセージといえば
「肺ガンになる」というものなんですが、
過去40年間の「喫煙者」と「肺ガン死亡者」
のグラフをみると、喫煙者はどんどん減って
半分になっているのにも関わらず、
肺ガンで死亡している人は「10倍」になってます。
これはイギリスでも同じ結果です。
さて、これは何故でしょう?と。
都合のいい対比データですから、
一概には言えませんが、
一説では、ドーパミン、セロトニンなどの
脳内活性物質の状態をコントロールするのが
ニコチンだと言われます。
タバコを好むインディアンは平和主義者
である反面、禁煙者の多いアメリカでは攻撃的です。
つまり、体の因果関係で言えば喫煙は
間違いなく、体には良くないんですが、
脳内、全体の側面で言えば、そうじゃない、と。
そう考えれば、ロジカルでは説明できない
のではなく、「隠れた変数」が抜け落ちてる、
そう思った方が、よっぽど論理的です。
肺がんになるから吸うな、じゃなくて
「煙と匂いが嫌い」でいいじゃないですか(笑)
☞ ☞
ここでちょっと仕事の話に
なるんですけどね、
僕が、FC展開しようとする際、
その材料に売上データを重視しないんです。
もちろん、大赤字の店はしませんが
競争優位性とか、成長率とかは
ほとんど無視します。
なぜ既存の売上とか成長性とかを
見ないか?というと、「環境」という変数がない。
その変動数は予測から排除するか、
「誰でも使える数字」に変換してるだけです。
つまり、それを模倣した他社が
「今の環境下ではいない」、という前提になる。
仮に、そこと類似したビジネスモデルが
知らない所でどんどん広がっていたとすれば、
ブルーオーシャンでオンリーワン
戦略だったのに、いざ蓋を開けてみれば
競争原理に巻き込まれてしまった、と。
そんな話はゴロゴロしています。
サラリーマンの給与みたいに
毎月決まった日に、決まった額が
入るなんて、ありえませんからね。
☞
タバコの件にしてもそうですが、
そこには肝心要の「流動する実体」がない。
これを仮説検証することが、
大事ではないでしょうか。
まっ、愛煙家の正当化と言われたら
それまでですけどね(笑)
2011/10/11
奇跡のリンゴ
- 奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録 (幻冬舎文庫)/幻冬舎
- ¥576
- Amazon.co.jp
リンゴ栽培には農薬は必要不可欠、
これは誰もが信じて疑わない常識であった。
しかし、その常識を覆したに男がいる。
奥さんが農薬の影響によって体調を壊した事から
彼は無農薬栽培のリンゴを作ることを決意した。
当然、何度も何度も失敗を繰り返す。
虫は葉を食い、花や芽は季節外れに咲いてしまう。
それでも木村さんは諦めなかった。
明確な動機があったからだ。
しかしその情熱を試すかのように
一向に無農薬のリンゴは生まれなかった。
☞☞
約10年の歳月が経ったが、
それでも一向に成果が実らない。
次第に周囲の農家からも孤立、借金は増すばかり。
極貧の生活の中、子供たちは一つの消しゴムを切り分けて使った。
私財も底をつき、精神的にも物質的にも
限界となった木村さんは、ついに自殺を決意する。
妻を元気にしたい、という動機であったのに、
なんという残酷な現実だろうか。
ここまでは誰もがそう思うだろう。
☞ ☞
木村さんは祭りの後、1人山に向かう。
首をくくるロープを「とあるくるみの木」へ投げ入れた。
しかしロープは引っかからず地面に落ちる。
それを拾おうとした木村さん、そこで「あることに気付く」。
その自生したくるみの木は枯れることなく、
害虫も発生していない。
そこで疑問が起こった。
死ぬ寸前であったにも関わらず、「それ」は自然に湧きあがったのだ。
なぜ山の中の木は肥料も農薬も使ってないのに
こんなにも青々しく茂っているのか?
ハッとした木村さんはその土を手にとってみた。
そして自分の畑の土との決定的な違いを発見する。
「土だ、土が違ったんだ」
まるで天啓を受けたかのように、その足で畑へ向かい、
その後ついに「奇跡のリンゴ」が生まれた。
地獄の中に光明を見たとは、まさに事の事である。
☞☞
これが途中で常識に縛られたり、
知人たちの助言に従っていたとすれば、
奇跡のリンゴはこの世に存在しなかっただろう。
どんな分野であれ、ある専門性を特化すれば、
必然的に既存の知識によって「自縛自縄」となってしまい、
場合によっては「他縛他縄」となる。
帰納的形式知において成立する専門家達の業界が
タコつぼ化するのも、こういった事が理由である。
しかし、このように根拠も何もない所にこそ、
奇跡的な発見や常識を覆すアイデアが起る。
僕はこの話がとても好きだ。
その事実を経験したら、強くなれる気がする。
根幹を変えよう2
さて、理念の欠如とは、言うなれば
屋台骨の喪失を意味します。
思想哲学の拠り所がなくなってしまえば、
存在意義さえも消えてしまうでしょう。
それは原理主義とは違います。
とても似ているけれど、根本的な部分は異なっているのです。
理念共有は「個人尊重」があってこそ。
時代と共に変わる「日々新た」。
古いようで新しい、温故知新のロードマップが理念なのです。
☞ ☞
理念が原理主義となれば、
異質が入り込む隙間はありません。
現在「多様でフラットな職場」という
スローガンだけが、ひとり歩きをしているのですが、
多分、9割以上の組織は階層型のはずです。
肩書きをもった人に決定権がある以上、フラットではない。
その状態で異質を取り込もうとしても、
不整合を起こし、かえって混乱するでしょう。
「ではどうしたらいいのか?」
これについては企業ごとに違うのですが、
いきなり全てを変えてはいけません。
まずはモデル部署(チーム)を作ることです。
フラット化させたその部署は分社という概念、
そこには責任と権限を持たせることです。
(詳しくはお問い合わせのほど)
異質とは均質にならないからこそ異質、
単に、社外や中途を採用することではありません。
組織母体が1000名の中に異分子を
数十名いれたとしても、大河に一滴のしずくを
たらすようなもの、効果は期待できないでしょう。
生身の人間の集合体が組織である以上、
時間をかけて風土を作る以外、道はありません。
トップが近視眼的な不安に耐えきれず、
短期的な結果を求めはじめた途端、
それまでの努力は全て水泡に帰しますので、
理念によって、ぶれない軸を作ることが
最優先事項なんですね。
2011/10/03
それはパンのように
民主主義や自由の権利について
よく引用される言葉があります、
私はあなたの意見には反対だ、
しかしあなたがそれを主張する権利は命をかけても守る。
フランスの啓蒙主義の哲学者である
ヴォルテールが述べた、と言われます。
今回はそんな自己主張についての小話。
多様性に伴い、主義・主張は自我だと批判されています。
「それはあなたが勝手に思ってるだけでしょ」という事。
たしかに行きすぎた主張や権威を持った主観は
宗教的で危険な性質も持っていますが、
逆にそれがなければ我々はどこへ向かっていいのか
全く分からなくなります。
また、その先に「喜びや豊かさ」がなければ
誰もがそこへ向かおうと思いません。
問題はその主張の先にある「ビジョン」が
どれだけ価値を持っているか、それに尽きるのではないでしょうか。
また、その価値こそ主観を超えたものであって、
超える、ということは横軸ではなく縦軸。
つまりその言葉を裏付けする深さであり本質であり
政治家のマニフェストのような広く薄っぺらいものではないのです。
☞ ☞ ☞
人間とは挑戦と失敗によって得られるものがあります。
それは本物の喜びと「人格」です。
よって人格というのはパーソナル(個人・私的)ではなく、
何かしらの行為によって育まれれる後天的なもの、
よって私の思う魅力のある人とは両義的な経験から
鍛えられた精神性を得た方々の事です。
それは安楽や怠惰、そして平穏のどかな環境では
なかなか成熟できないものではないでしょうか、
苦しみや困難、孤独や絶望といった経験によって
精神性の年輪が深まり、人格と成る。そんな気がします。
人格は石のようにそこにある。というものではなく、
パンのように日々、作られるもの。
常に作られ、直され、新しいもの。
そんな動的なイメージがあります。
逆境が人に与える教訓ほど、麗しいものはない。
これはシェイクスピアの言葉です、
「苦や不」という概念はできれば避けて
取りたいのが心情ですが、
そこには「楽や喜」では決して手に入らないものが
手に入るんですね。
よく引用される言葉があります、
私はあなたの意見には反対だ、
しかしあなたがそれを主張する権利は命をかけても守る。
フランスの啓蒙主義の哲学者である
ヴォルテールが述べた、と言われます。
今回はそんな自己主張についての小話。
多様性に伴い、主義・主張は自我だと批判されています。
「それはあなたが勝手に思ってるだけでしょ」という事。
たしかに行きすぎた主張や権威を持った主観は
宗教的で危険な性質も持っていますが、
逆にそれがなければ我々はどこへ向かっていいのか
全く分からなくなります。
また、その先に「喜びや豊かさ」がなければ
誰もがそこへ向かおうと思いません。
問題はその主張の先にある「ビジョン」が
どれだけ価値を持っているか、それに尽きるのではないでしょうか。
また、その価値こそ主観を超えたものであって、
超える、ということは横軸ではなく縦軸。
つまりその言葉を裏付けする深さであり本質であり
政治家のマニフェストのような広く薄っぺらいものではないのです。
☞ ☞ ☞
人間とは挑戦と失敗によって得られるものがあります。
それは本物の喜びと「人格」です。
よって人格というのはパーソナル(個人・私的)ではなく、
何かしらの行為によって育まれれる後天的なもの、
よって私の思う魅力のある人とは両義的な経験から
鍛えられた精神性を得た方々の事です。
それは安楽や怠惰、そして平穏のどかな環境では
なかなか成熟できないものではないでしょうか、
苦しみや困難、孤独や絶望といった経験によって
精神性の年輪が深まり、人格と成る。そんな気がします。
人格は石のようにそこにある。というものではなく、
パンのように日々、作られるもの。
常に作られ、直され、新しいもの。
そんな動的なイメージがあります。
逆境が人に与える教訓ほど、麗しいものはない。
これはシェイクスピアの言葉です、
「苦や不」という概念はできれば避けて
取りたいのが心情ですが、
そこには「楽や喜」では決して手に入らないものが
手に入るんですね。
2011/09/06
蝶と蛹
神道によると、世界は「八百万の神」と言われます。
生物だけに限らず、形あるものはすべて神の面影がある、と。
神は花であり、鳥であり、風であり月。
今日は超個人的な小話。
正直、思いつき・思いこみの部分があるので
ご了承のほど(笑)
☞☞
さて、神道には様々なものがあります。
吉田(卜部)新道である唯一神道や
密教と結びついた両部神道、神仏習合である
山王一実神道に伊勢神道、本居宣長の説く復古神道まで様々です。
しかし、古来庶民に広がった神道は、
もっと素朴な感覚だったのではないか。
個人的にそう思ってます。
対象を暴こうとするのではなく、
おてんと様や、雷様という具合に
畏れ、敬うものとして共有するという
素朴な精神、神自体の存在の定義よりも
こころの拠り所としての、概念の共有化が大切なんじゃないかしらん。
神社の鳥居は自然(外部)と
人工(内部)を調和させた作りになっています。
我々は自然に生かされている、
その道を知ることが、神道(神ながらの道)だ、と。
「後記」
八百万の神である自然の偉大さ、
美しさは「雅(みやび)」と呼ばれ、
やがて様々な文化へ飛び火しました。
それが香道であり、書道であり、茶道であり、
侘びであり、粋。ちなみに雅は「宮ぶ」に由来し、
「宮」とは「御家」のことです。
つまり最終的に、それら文化的な模倣は、
必然的に神道的な雅を真似ぶこととなるんですね。
2011/07/18
自然界の自己組織
こんばんわ、坂口です。
なんか台風きそうですな( ̄_ ̄ )ムー
出張と、引きこもって一人で作業するのが
ハッキリしている僕からすれば、台風の日は引きこもりたい所です。
ちなみに(理科の時間みたいですが)
台風が起る原因は太陽の熱エネルギー、
日射により、海水温が高くなるにつれ、
大気の状態が不安定になっていきます。
(細かい説明はカット)
多くの海域はそんな不安定な状態でも、
安定しているのですが、 熱帯収束帯付近になると、
下層の不安定な空気が集まり、強い上昇流を生じるのです。
これが積乱雲となり、雲の塊を作り
さらにその雲の塊は持つ凝結熱によって上空を暖めて。。ペラペラ
まあ、そんな感じで次第に雲は「自己組織化」され、
台風になるんですね。
様々な「無秩序」が絡み合い、
台風と言う一つの「秩序」を生み出す、ってことです。
☞ ☞
そういったものは他にもあって、例えば
「ソリトン」といった波は非線形かつ孤立しながらも、
自己組織化したもの。
だから津波の形状を保って、どんどん進み続けます。
まさに無秩序から秩序が生まれている証拠ですよね。
僕は、これが本来の自然界だと思ってます。
仮に自然がエントロピーの法則だけで説明できるなら、
無秩序にこそなれど、秩序に向かうことはありません。
しかし、現実はこうやって自己組織化(秩序)が
起きているわけじゃないですか。
この事実にもっと目を向けなくてはいけないんだけど、
人間は「自分たちが秩序を作れるのだ」と、色々と考えちゃうんですよね。
我々人間は賢いから、と。
でも理性ってそんなに万能なんでしょうかね。
☞☞
現在、情報や知識はものすごく深まりましたが、
それがかえって真実から遠ざかっているように感じます。
深く知れば知る程、本質的な意味が曖昧になって
答えが簡単に出せなくなってしまうことはよくあること。
だからこそ、「脱マネジメント(理論)」、
感性に戻すための「回帰論」を提唱してます。
(情報を)捨てられないなら
とことんやって、早よケリつけてまえ(・∀・)
2011/06/06
チャーハン
料理を説明するのに
「コショウと塩を少々」とよく言われますけど、
それはどのぐらいなのか、や
何gか、ではありません。
「なんとなくこんな感じ」、
さて、我々コンサルは成果が出た
「コショウと塩を少々」とよく言われますけど、
それはどのぐらいなのか、や
何gか、ではありません。
「少しの間、中火で煮込む」や
「火加減を見ながら」も、そうですよね^^
結局のところ、美味しい料理を作る「加減」というのは
料理を何回も繰り返していくことで分かるもの。
「なんとなくこんな感じ」、
この「何となく」といった、ファジーな感覚が「体験科学」です。
料理本などの知識があれば、結果は分かります。
しかし、それと上記の加減を知ることは同じではないんですね。
チャーハン大好き
さて、我々コンサルは成果が出た
戦術を形式化し、クライアントへと提供します。
しかし、同じようにコピーした際、
全く成果を出せない人がいますし、
逆に同じ効果、もしくはさらに高い成果を出す人がいます。
知識(ノウハウ)が同じであるにもかかわらず、
両者にはには大きな「違い」が出ているのは明白です。
知っただけで満足してしまうのが我々人間ですが、
得た知識には経験(実践)が必要ですし、
さらに探究心や情熱などの在り方も大切です。
それは外因による偶発的に起きた成功ではなく、
内外要因を歯車のごとく回せる人のことであり、
さらに、それらを「無理なく」継続して続けられる人なのです。
2011/02/18
多世界解釈
ピカソの絵を見て、ラクガキ書きにしか見えない人と
そこに価値を見る人がいます。
「俺には絵を見るセンスがないのだろうか・・・?」
そう感じる人も中にはいるかもしれません。
なぜ一人一人、こういった感性が違うのか?
そもそも我々はインプットから
アウトプットまでの過程から、処理まで全て違います。
つまりピカソの絵に価値があると
処理できない人が変なのではない、ということ。
余談ですが岡潔はピカソの絵を「無明の絵」とします。
あれは自我を最大化させた作品であって、
ずっと眺める場所に飾れる代物ではない、と。
面白いですね、そこまで感じる人もいれば、
ピカソだからといって「素晴らしい」という人もいます。
これはどんな対象でもそうでしょう。
例えば世界中に人たちが同一の太陽を見ていますが、
その太陽は全員で一つを共有していないので、
人数分の違う太陽が作成されているとも考えられます。
普通に考えたら当然の事、
逆に全く一緒に見えていると考えるほうが、無理があります。
そう考えると、一つの仮定が生まれます。
我々が世界に一つしかない完全オリジナル世界を
作り出しているというのならば、
人間もまた、万物の創造主ではないでしょうか?
これが量子力学で言う世界は「人数分(思考分)だけ存在する」という事です。
コペンハーゲン解釈しかり、
エヴェレットの多世界解釈しかり、
ホーキングのベビーユニバースしかり。
多世界解釈は旧科学者のあいだでは
SF的な目で見られているので
支持者はあまりいないらしいのですが、
はたして・・・どうでしょうかね。
シュレディンガーの猫でいう所の
可能性の波(並行世界)、
人だろうが地球だろうが宇宙だろうが
「あらゆる可能性を持っている状態」こそ、
本来ではないでしょうか。
2011/02/08
フランチャイズ版「第三の波」
現代の日本を予言したかのようでもある
アルビン・トフラー氏の著書「第三の波」。
数十年前に書かれた予想と近い状態が
日本で起こっているんですね。
これは占い師のような未来予言というよりも、
論理的な予報図でもある気がします。
科学、技術、社会学、宗教など、
あらゆる分野からの情報を集積統合し、
世界の将来を予測しているんですね。
別の著書である「未来の衝撃」なんて出たの1970年です、
パソコンが世に出る何年も前。
そんなアナログ時代に書かれた本には
やがて来る情報過多と技術革新の加速、
それに伴う「絶え間ない変化」の要求についていくことが、
非常に苦しく思われるだろう、と書かれているからビックリですね。
日本ではP・ドラッガーやF・コトラーが有名になってますが、
僕は断然トフラー氏が好きです。
ネタを少しばらせば、unreveのFCの概念やコンセプト、
これに影響を受けています。
(全てとは言えませんが)
相変わらず同業他社から批判を受けていますが、
数年前より信憑性が出てきた気がします。
自分で言うのもなんですけどね(笑)
と言う事で、今後来るであろう新しいFCの波を
今回ざっくりとですが触れてみます^^
■□■□■□■□■□
さて、トフラー氏が予測した大きな特徴は
以下のような内容です。
○組織が不適切な行為を隠すことは不可能になる
情報量が急速に増えることに加えて、
プロフェショナル・コンシューマ向けの分析ツールが“拡散”することで、
組織の行動を見張り、その情報を他者に伝えやすくなる。
○消費者が選択を動かすようになる
コミュニケーション技術やソーシャルネットワークが
ますます影響力を持つようになり、製品やサービスの提供において
決定的ファクターとなる。
他にもたくさん、たくさんあるんですが、
書き出すと長くなるのでとりあえずこの2点を。
アルビン・トフラー氏の著書「第三の波」。
数十年前に書かれた予想と近い状態が
日本で起こっているんですね。
- 第三の波 (中公文庫 M 178-3)/中央公論新社
- ¥999
- Amazon.co.jp
これは占い師のような未来予言というよりも、
論理的な予報図でもある気がします。
科学、技術、社会学、宗教など、
あらゆる分野からの情報を集積統合し、
世界の将来を予測しているんですね。
別の著書である「未来の衝撃」なんて出たの1970年です、
パソコンが世に出る何年も前。
そんなアナログ時代に書かれた本には
やがて来る情報過多と技術革新の加速、
それに伴う「絶え間ない変化」の要求についていくことが、
非常に苦しく思われるだろう、と書かれているからビックリですね。
日本ではP・ドラッガーやF・コトラーが有名になってますが、
僕は断然トフラー氏が好きです。
ネタを少しばらせば、unreveのFCの概念やコンセプト、
これに影響を受けています。
(全てとは言えませんが)
相変わらず同業他社から批判を受けていますが、
数年前より信憑性が出てきた気がします。
自分で言うのもなんですけどね(笑)
と言う事で、今後来るであろう新しいFCの波を
今回ざっくりとですが触れてみます^^
■□■□■□■□■□
さて、トフラー氏が予測した大きな特徴は
以下のような内容です。
○組織が不適切な行為を隠すことは不可能になる
情報量が急速に増えることに加えて、
プロフェショナル・コンシューマ向けの分析ツールが“拡散”することで、
組織の行動を見張り、その情報を他者に伝えやすくなる。
○消費者が選択を動かすようになる
コミュニケーション技術やソーシャルネットワークが
ますます影響力を持つようになり、製品やサービスの提供において
決定的ファクターとなる。
他にもたくさん、たくさんあるんですが、
書き出すと長くなるのでとりあえずこの2点を。
2011/01/05
「恕」
ども、unreveのグッさんです(^^)
九州南部が梅雨入りしましたね。
これが明ければ夏の到来です、
雨にも負けず頑張りましょう(どっかで聞いたような・・)
そういや日本ではあまり知られてない(失礼)
ラーメン店の「陣屋」さんが、
カリフォルニアに直営店5店舗オープンさせ、
フランチャイズ展開してますね。
先に海外を攻めますか。
第二の味千ラーメンになるのでしょうか?
大小関係なく、FC形態のビジネスモデルの需要は
これからどんどん高まると思います。
さてさて今日のテーマは「恕」。
あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b
☞ ☞
江戸時代の記録には「我よし、相手よし」といった
考え方がよく記載されていると言います。
共存の精神がこの時代には、すでに根付いていたんですね。
また、奈良時代以前にもそれはあって、
聖徳太子で有名な「和を以って・・・・」がそうです。
ただ、戦国時代はどうなの?というと、通用しなかった。
長ー・・い戦国の時代が終焉を迎え、
泰平の世と言われた江戸に入った時、
今まで押さえていた共存・共栄の意識が
一気に吹き出したのかもしれません。
「もう人と争うのは嫌だ、自分の事しか考えれない世の中なんて嫌だ!」
そう思っていたのかもしれませんね。
天下を取った(治めた)徳川家康は
元号を「元和(げんな)」としました。
これは何を意味するかと言うと「平和のはじめ」です。
平和の為には武士たちに文官の意識を
持たせる事が重要と思った家康は
儒学者である林羅山の勧めで儒学を
武士の心構えにしようとしたんですね。
ちなみに、孔子の教えにある言葉で
「恕」という言葉があります。
これは弱い者の立場に立ちなさい、というもの。
相手を思いやる心、許す心を持つ事を孔子は「恕」という
たった一文字で表しています。
その後孟子がもっと分かりやすく「忍びざる心」と言いかえ、
江戸の文化はこの共生の精神が広がったと言います。
つまり「三方よし」とは、競争の行きつく先までいった
人たちが経験した心の声から派生しているんですよ。
九州南部が梅雨入りしましたね。
これが明ければ夏の到来です、
雨にも負けず頑張りましょう(どっかで聞いたような・・)
そういや日本ではあまり知られてない(失礼)
ラーメン店の「陣屋」さんが、
カリフォルニアに直営店5店舗オープンさせ、
フランチャイズ展開してますね。
先に海外を攻めますか。
第二の味千ラーメンになるのでしょうか?
大小関係なく、FC形態のビジネスモデルの需要は
これからどんどん高まると思います。
さてさて今日のテーマは「恕」。
あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b
☞ ☞
江戸時代の記録には「我よし、相手よし」といった
考え方がよく記載されていると言います。
共存の精神がこの時代には、すでに根付いていたんですね。
また、奈良時代以前にもそれはあって、
聖徳太子で有名な「和を以って・・・・」がそうです。
ただ、戦国時代はどうなの?というと、通用しなかった。
長ー・・い戦国の時代が終焉を迎え、
泰平の世と言われた江戸に入った時、
今まで押さえていた共存・共栄の意識が
一気に吹き出したのかもしれません。
「もう人と争うのは嫌だ、自分の事しか考えれない世の中なんて嫌だ!」
そう思っていたのかもしれませんね。
天下を取った(治めた)徳川家康は
元号を「元和(げんな)」としました。
これは何を意味するかと言うと「平和のはじめ」です。
平和の為には武士たちに文官の意識を
持たせる事が重要と思った家康は
儒学者である林羅山の勧めで儒学を
武士の心構えにしようとしたんですね。
ちなみに、孔子の教えにある言葉で
「恕」という言葉があります。
これは弱い者の立場に立ちなさい、というもの。
相手を思いやる心、許す心を持つ事を孔子は「恕」という
たった一文字で表しています。
その後孟子がもっと分かりやすく「忍びざる心」と言いかえ、
江戸の文化はこの共生の精神が広がったと言います。
つまり「三方よし」とは、競争の行きつく先までいった
人たちが経験した心の声から派生しているんですよ。