2011/02/18
多世界解釈
ピカソの絵を見て、ラクガキ書きにしか見えない人と
そこに価値を見る人がいます。
「俺には絵を見るセンスがないのだろうか・・・?」
そう感じる人も中にはいるかもしれません。
なぜ一人一人、こういった感性が違うのか?
そもそも我々はインプットから
アウトプットまでの過程から、処理まで全て違います。
つまりピカソの絵に価値があると
処理できない人が変なのではない、ということ。
余談ですが岡潔はピカソの絵を「無明の絵」とします。
あれは自我を最大化させた作品であって、
ずっと眺める場所に飾れる代物ではない、と。
面白いですね、そこまで感じる人もいれば、
ピカソだからといって「素晴らしい」という人もいます。
これはどんな対象でもそうでしょう。
例えば世界中に人たちが同一の太陽を見ていますが、
その太陽は全員で一つを共有していないので、
人数分の違う太陽が作成されているとも考えられます。
普通に考えたら当然の事、
逆に全く一緒に見えていると考えるほうが、無理があります。
そう考えると、一つの仮定が生まれます。
我々が世界に一つしかない完全オリジナル世界を
作り出しているというのならば、
人間もまた、万物の創造主ではないでしょうか?
これが量子力学で言う世界は「人数分(思考分)だけ存在する」という事です。
コペンハーゲン解釈しかり、
エヴェレットの多世界解釈しかり、
ホーキングのベビーユニバースしかり。
多世界解釈は旧科学者のあいだでは
SF的な目で見られているので
支持者はあまりいないらしいのですが、
はたして・・・どうでしょうかね。
シュレディンガーの猫でいう所の
可能性の波(並行世界)、
人だろうが地球だろうが宇宙だろうが
「あらゆる可能性を持っている状態」こそ、
本来ではないでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿