2017/11/30
2017/11/29
思い立ったが吉日ですね。
この日は朝の5時から雲仙へ(笑)
目的は小浜温泉と紅葉狩り、
思い立ったら即行動です(笑)
車のフロントガラスが凍りつく
この季節に「寒い~」と言いながら
車を走らせるって、楽しいですよね。
有明海沿いを走ってると
タイミングよく日の出に遭遇、
日の出を見るなんて久しぶりでしたよ。
そんなこんなで小浜温泉に到着。
朝日に映える湯煙が良い感じ♪
とりあえず最初は海抜0メートル(?)、茜の湯へ。
平日の朝一だったんで誰もいません。
おじちゃんに撮影許可を貰い、撮影しました(笑)
スゴイでしょ。
船に乗ってるおじちゃんから丸見えですわ。
しばらくして次の温泉「つたや」さんへ。
今度は上からの展望風呂です♨
こちらは貸し切り風呂。
実に贅沢な朝風呂でした( ̄▽ ̄)
さっぱりした後、雲仙へ。
目が覚めるような紅葉、もみじがお出迎えです。
ちなみに日本の紅葉は世界一美しいとか。
これほどの色彩の鮮やかさって、珍しいんでしょうね。
そして雲仙で有名な「みかどホテル」でランチ。
お腹も心も満たされた一日でした(´-`).。oO
2017/11/24
相対主義とビュリダンのロバ②
前回に続き二回目。
一即多、多即一。
絶対と相対の平衡感覚について。
一人で決断ができないのは
端的に言えば自分の意見を持っていないから、
自分の意見というのは自分が決めた
ルールのこと。誰も自分のかわりに
言うこともなければやることもない、
自分だけしか引き受けられないものです。
その対極が一般論(世論)でしょう。
多くの人の支持を得る反面、誰も責任を
引き受けません。
「みんながそう言っているから」という
理由で鵜呑みにし同じことを繰り返します。
「なぜ?」と聞いても「そう言ってたから」と。
そんな無責任な発言をネットでよく見ますが
それは上記が無限連鎖の性質を持っているから、
フェイクニュースはこうやって拡散されていくわけです。
世論が必ずしも正しくないとすれば
正解とは一体、どこにあるか。
言わずもがな、自分である。判断の基準を
自分の外に求めるという思い込みの根は
非常に深いものがありますが判断(決断)する
基準は一切、自分にしかない。故に小林は
その自覚がいちばん難しいと説いたのでしょう。
我々は自分のやりたいことをやる
自由があります。だから中には悪いことを
やることも自由だ、と言い出すバカが出てきます。
「自分に嘘はつけない」と。
そう言って欲望(本能)に従うのが
自由意思による「決断」だと勘違いして
いるのですが、悪い事をやる自由とは
その本質において自由などではありません。
善悪を自分で判断できるようになること、それが本当の自由です。
本当に良い事だと「私は思ってる」のと
「本当に良い事」は同じなんかじゃない。
間違ってたことをいくら自分で正しいと
思ったとしても、それが正しくなるわけ
ありませんから。
世の中には善いことも悪いことも
ないのだから、自身が善いと感じ、
自身が悪いと感じる、そのことにのみ
従って行為せよ。一切は君の自由だ。
「売春がなぜ悪い。私の自由だ」と言う
女子高生に、大人が反論できなくて困っているのだそうだ。
「なぜ悪い」と問われれば、こう答えてやればいい。
善悪を知らないというそのことが悪い。
知らないということが悪いことだと知らないことが悪い。
それは誰にとっても悪くないが、お前にとってだけは 大いに悪い。
池田晶子「残酷人生論」より
2017/11/23
2017/11/22
相対主義とビュリダンのロバ①
神様だって聖神と邪神がいる以上、
それは観察者の自分次第である。
そんな量子力学的な知識を加えた
新相対主義者(?)を最近よく見ますね。
彼らは相手を否定せず自分の価値を
押し付けません。みんな違ってみんな良い。
天は人の上に人を造らずと、実に寛容な態度です。
ただ、個人的にはそれもまた盲信した
独善的価値観じゃないかと思ってるんですね。
釈迦の無常って考えだってそう。
「絶対は絶対にない」と断言する以上
それもまた絶対的価値じゃないかと。
今日はそんな自己矛盾を抱えた
クラインの壺の小噺、
あくまでも個人的な考察です。
戦後「人類みな兄弟」と言う
イデオロギーが確立されてから以降、
その教育を受けた団塊世代やその子供たちは
「敵側にも正義がある」という思想の土台を形成していきました。
銀河英雄、ガンダム世代ですね(笑)
最近のスーパー戦隊もの然り、
これがコンセプトになっているようです。
世界を一色で染め上げる「画一化」
というものは狂信的で危険である、と。
これに異論を持つ人は少ないでしょう。
人種や文化が異なる国同士がその土地の
ローカルな価値を認め合わなければ強国は
グローバルと言う名の価値を一方的に
他国に押し付けてくる。FC然り、僕は
均一的量産化を認めません。
ではなぜ相対(多様)を批判するかと言えば
そこには価値基準がないから。
相対的な考え方は「何が良いか」を模索する
精神的苦痛から解放してくれるので自由で
楽ではあるけれど、品位や美意識、そして
上質というのが一体どんな状態なのかが分からなくなってきますよね。
過剰な愛情が偽善(支配)へ陥るように、
過剰な自由が排除に繋がるように、
過剰な平等(すべて認める)は格差へと転じるのです。
平等は不公平
相対主義に偏り過ぎた人は、まるで
寓話「ビュリダンのロバ」のよう、
毎日毎日おなじ配合で同じ量の餌を
食べ続けたロバはそれと同じ餌が
二つあった場合、どちらも選択できず
餓死してしまうというお話。
この国では「二兎を追う」と言いますね。
つまり相対(どちらの価値をもを認める)は
「選択する」ことができない状態と言えるでしょう。
ではそこからどう選択するか。
長くなったので次回に続きます。
2017/11/19
2017/11/18
2017/11/17
冬になっても。。。
地元の中華料理店、「上海μ」さんへ。
安心安全な食材と全て手作りの中華が頂けます。
前の菜
フカのヒレ
コースは10品、色々出てきます。
紹興酒をカシスで割ったカクテル。
かなり強いです(笑)
立冬になってもいまだ食欲は秋。。。。
2017/11/15
自由と蝶番(ちょうつがい)
「もし私がドアの自由な開閉を望むならば
蝶番は固定されていなければならない。」
ヴィトゲンシュタインは著書
「確実性について」でこう言いました。
固定されることで獲得するのが自由である、と。
真の自由とはそのようなもの。
何も制約のない野放図的な自由を勧める
新自由主義者(?)たちは常識を壊すことで
幼稚な快楽を覚えていますが彼らは良き
精神の型(フォーム)を知らないのです。
「善い」ではなく「良い」。ニーチェ、「道徳の系譜」ですね。
こう書くと「クリエイター(芸術)は違うだろ」
と言う人もいるかもしれません。
誰の意見も聞かず既存のルールを壊すことが
我々の仕事なんだ、と。しかし創作的自由にも
必ず「型(フォーム)」があります。
例えば自由に絵を描こうとした場合、
どこに書くか、どれくらいの大きさで書くかを
まず決めないといけませんよね。それが
決まって初めて「筆はどれを使うか」といった
選択肢が生まれます。つまり作品(自由)より
型(制限)の方が先に来るのです。
スポーツだってそう、様々な制約の中で
自由なプレイを行うからこそ観客は魅入る。
そんな制約(枠組み)が伝統であり本来の常識であると思ってます。
「後記」
当事務所のFCは加盟店との共創体制を
目指していますが「なんとなくの気分」で
思いついたアイデアを全て認めるものではありません。
何でもありの自由を認めても共創や維持、
継承はできないと伝えています。
自由が価値を持つには「良き型」、
グッドフォームに従属する必要がある。
その制限があるからこそ、優れた価値を生み出すことができる。
逆を言えば個性や新しい価値とは
抑圧されることで「にじみ出るもの」かもしれませんね。
2017/11/12
面倒だから良い。
「やる気のスイッチ」みたいな言葉が
もてはやされてるせいか、最近なんでも
かんでも楽に成果を手に入れようと思ってる方が多いように感じますね。
このボタンを押せば理想の相手が見つかる。
このボタンを押せば家庭が幸せになれる。
このスイッチを入れたら我が子の不登校が治る。
エトセトラ、エトセトラ。
そんな悩みや苦労を簡単に解決したい人の
心理とは端的に言えば「楽しさだけ」を
求めているってことでしょう。例えるなら
ペットの可愛い部分だけにしか興味がなく
散歩や躾けはしたくないって言ってるようなものです。
他者と向き合うことが面倒。
自分と向き合うことが面倒。
手をかけ、世話をするのが面倒。
そんなことをする時間があったら
自分の好きなことだけをやっていたい。
だから簡単に楽に成果が生まれる
魔法のボタンを求めているわけだ。
このボタンって言葉を「マニュアル」とか
「ノウハウ」に変えてもいいでしょうね。
ただそれは確実に物事を歪めていきます。
例えば塾や学校では成果を第一にした
カリキュラムによって教育していますが
それに従っても優等生にはなれたとして
優秀な(成熟した)人にはなれません。
もちろん合格という目的を達成する
ためには必要なことだけど、上記の
方法だと本当にその子のやりたい事や
向いていることなんてわからないじゃないですか。
優秀とは非効率の産物なんです。
地頭が良い人はそんな根本的な歪みを
見抜いています。既存のカリキュラムに
埋没すればセンス(感性)が劣化することを直観的に理解しているんです。
直観を信じるか、効率さを知るか。
詳しくは過去記事「信じることと知ること」を参照くだされ。
「後記」
ちなみに結婚は直観で決め、面倒くさいもの。
それで良い、それが良いんじゃないかしらん(笑)
逆に理論や理屈、損得勘定で結婚すれば
今度はその損得勘定が別れる理由になりますよ。
だから最近は「結婚はコスパが悪い」と結婚すらしなくなったわけでしょう。
あと「結婚って良いもんですか?」って
聞く人がいますけどね、そんなものすぐに
分かるわけありません。人生と同様、
長い年月連れ添った人だけが最後に語れる一代限りのモノローグです。
2017/11/10
芯の強さ
気負いなく、余分な装飾がない生き方は
自然で最適な姿であるけれど、なかなか難しいものですね。
我々は必要以上に見栄を張ってしまう生き物、
虚栄に取り込まれ散財してしまい普通の幸せすら
見失ってしまった人はたくさんいます。
分相応、身の丈の見極めはビジネスにも必要。
これをしないと格好がつかない、恥ずかしいと
ピカピカのメッキで固めれば他人を誤魔化せるかも
しれないけど、今度は自分が自分を恥じるようになるでしょう。
もちろん他人の目を全く気にしないほど
意志を強く持つことは難しい。誰だって
他人の声や評価を気にしてしまうもの、
田舎にせよ都会にせよ社会的な存在である
僕らは他者を完全に無視して生きれるほど
強靭ではなく、自由ではない。
ただそんな完全に遮断できない社会の中、
いかに自分を偽ることなく歩みを進めることができるか。
芯のある人は常にその葛藤がありますね。
芯は外側にはなく、内側にしかありません。
2017/11/06
二人静
二人の役者が共にシテ(主役)となる
能楽の二人静、
どちらか一方ではなく「どちらとも」。
これを能の世界では相舞(あいまい)と言い
息がぴったり合うほど盛り上がるんですね。
八百万の神々が話し合うことで新たな価値を
生み出す産霊(ムスビ)の概念然り、
その起源はずいぶん古くから存在しています。
小林は著書「本居宣長※補記」では
日常の対話問答の重要さを説きましたが、
似たようなものでしょう。
無心是我師、「これが絶対に正しい」という
思慮分別を主張しない無私の対話。
生きた人間が出会い、問答するその状態こそ
真智を得る道である、と。
書物を何度開けてみたって、
同じ言葉が書いてある。
一向面白くもないではないか、
人間に向って質問すれば返事をするが、
書物は絵に描いた馬のように、いつも
同じ顔をして黙っている。
人を見て法を説けという事があるが、書物は人を見るわけにはいかない。
他人を無理矢理に説得するような
弁論術や書かれたものをただ読むだけの
演説では人の心に響くことはなく智慧は生まれません。
そんな当たり前のことが分からなくなって
きている昨今、相手をやっつけるための
ディベート(雄弁術)とは真逆の性質である
ディアレクチック(対話・問答)ができる
場の形成が求められていますね。
心を開き、相手をリスペクトすることで
作り上げる共創という概念、
成功した経営者はこの有り様を「素直」と呼んでいるのでしょう。
2017/11/05
2017/11/04
11月ですね。
早いもので11月に入ってはや4日。
今年もあと2ヶ月ですね。
ちなみに先日は耶馬渓~深耶馬渓へ。
まだ色付きが進んでなかったけど
自然の景色に癒されました^^
こちらは青の洞門。
帰りに日田にある琴ひら温泉へ。
泉質も良く川の渓流沿いにあるのでロケーションも最高です♪
その前に腹ごしらえということで
館内にある「すみ火」さんで夕食。
ちなみにここで食べた人は温泉料金が安くなるんですよ~
お風呂の種類はこんなに豊富。
一つひとつの部屋も大きいです。
この時期って、ついつい温泉に足が向かいますよね(笑)