好きになることと「簡単なこと」を
一緒に考えている人がいるようですが、
本来の好きとは「困難なこと」を好きになることです。
難しいな、分かんないなと頭をひねる。
繰り返し練習し、トライする。
そしてそれが解けたときの面白さによって
ますます「好き」になるんです。
たとえばピッチャーが簡単な場所に
ゆっくりとボールを投げれば、そりゃ
誰だって簡単に打てます。
ただそれを何回も繰り返して
ああ楽しいな、と思う人はどれくらい
いるのかしらん。
もちろん、チームプレイも絡んでいるので
勝つこと自体も面白いでしょうが、
難しい球を打った瞬間、三振を重ねた時の
達成感は代替え不可の楽しさがあるはずです。
打率2割を3割にしたい、
もっと難しいボールを投げれるようにしたい、と。
それは野球だけに限りませんよね。
見れば今の教育は
難しいことが面白いという事を教えてませんね。
手っ取り早く楽に、簡単にできることを目的にしています。
なるほど。野球で言うなら
「パカスカ打てる」状態なのでしょう。
しかしそんなものちっとも面白くないし、
自信なんてものも生まれやしません。
それに慣れてしまえば難しい球が来たとき「これは嫌いだ」
「私はそれを望んでいない」と、逃げてしまうでしょう。
「今の僕」は30キロの球しか打てないけど、
この先ずっと、30キロの球だけを探したくはないですね。
✍
既に出来上がった知識を貰う事が
学ぶ事ではなく、出来上がった知識を
与える事が教える事ではないでしょう。
孔子は相手に対し、意志の部分を敲きました。
つまり教育の方角を個人が問い、疑える意志へと
向かわせたのです。
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