2013/01/01

加減を忘れた倫理の先

ドイツで長年に渡って「禁書」とされていた
「わが闘争」の著作権が来年切れるということで、話題になっている。


わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)/角川書店
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全体主義の代名詞であるナチズム(ファシズム)。
この原理には歪んだ「正義」が潜んでいる。


誰もが正しいと「思ってる事」を厳守するのは正しいだろうか?
正直、私にはそうは思えない。


私自身、倫理やらなんやらと言ってはいるが、
それらも極端に走れば当然、弊害が起る。


例えばナチス時代のドイツ、
来日したナチス青年団の印象は倫理的で規律のある青年達だったそうだ。



その倫理性や規律の正しさでホロコーストを引き起こした。
それは矛盾した行為ではなく、その性質の延長線にあったのだ。


日本も同じである、戦時中は戦争反対などといった
反イデオロギーは許されなかった。


また、戦時中には愛国婦人会という団体があり、
若い女性がパーマをかけていたりすると、注意していたらしい。


当然化粧もダメ、さらには髪の毛が長いとハサミで切ってたと言う。
レースや刺繍のついた服も「その場で」切り刻まれていたのだ。


精神的に未成熟なのは昔だけではない、
倫理と名を付け「勝手な自己判断」で裁く類は未だに多い。


お互いが罵りあい、軽蔑しているのだ。
良い意味で「放っておく」事ができないのかなぁ、と思ったりする。


タカもハトも極端な倫理性の向かう先である。
だからといってリベラルも同じである。


以前私はリバタリアニズムであったが
目指す概念とちょっと違うな、と感じるようになってきた。
また、今の政治構造ではリバタリアニズムは不可能ともいえる。

前提そのものを疑う必要があるのだ。


☞ ☞ ☞


現在道徳を普及させようとしているのか
慎ましさや品格といった、武士道的な精神性を復活させようとしている。


もちろんそれらは美しくはある、
しかしそのような復古論や懐古的な教育手法は私は懐疑的だ。


そもそも背景が違う、現在はバターナリズム(父権主義)ではない。
これは平和な時代の副作用であるというのが個人的な感想である。


物事には必ず「功罪の側面」がある。
それを理解し、罪的側面も受け入れるという覚悟が必要なのだろう。



理想なんてものを設定するからおかしくなる。
物事には必ず「毒と薬」が一緒くたになっていて、



一流と言われる人はその毒が必ず回っているのだ。



その毒が上まらないよう、浄化し続けることで
均衡を保っている、これは道を極めた人に共通している。

バランスを保つには、自己否定もまた必要なのだろう。


☞ ☞


よって今は考え抜かなくてはならない時代である。
言い方を変えれば、そうしないとどうにもならない所まで来たのだ。



我々はやり尽した終着点にいて、根源的なものを確かめているように見える。
また、そこには新しい価値が内包されている気がするのだ。



最近読んだ本に坂口恭平氏の「独立国家の作り方」というものがある。
最近もっぱら古典ばかりだが、これは久々に読んだ現代著書の中でイチオシである。



著書内にとても響いた言葉がある、
最後にそれを引用したい。


独立国家のつくりかた (講談社現代新書)/講談社
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この無意識だらけの無思考な社会が、居心地がいいわけがないのだ。
そこにはたくさんの無視が存在している。
差別が存在している。階級が存在している。貧困が存在している。



それが苦しくないわけないのだ。
僕の症状は自然な精神であれば、当たり前の事だと気付いてきた。


だからこそ、行動に実行に実践に、
結びつけなくてはいけないと決める事ができた。
とはいえ、障害はやはり障害である。
死ぬかもしれないという可能性もある。




だから新政府を立ち上げた。こんな事を社会に表明しちゃったら、
多くの人も応援してくれているし、死ぬわけにはいかない。



つまり「死ねない」。
これ、すなわち「生きる」である。



生きるというのはそう言う事だ、仕事で成功するとか
いい会社に入るとか、有名になるとか、資格を取るとか、出世するとか、
お金を稼ぐことではない。



「生きるとは死ねないこと」。
死ねない環境を作る、これが「生きる」と言う事だ。




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