こんばんわ、坂口です。
新潟行きが、ちょっと延びそうですが、
寒くなる前に行きたいものですな(笑)
さて、前回に続き3回目となりました
守と、自然派生の揺らぎ・遊びについて。
相変わらずの長文ですが、ではでは・・・
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守とは言わば型であり元であって、
自然には派生しない、とお伝えしました。
そこから来る「破」であり「離」こそ、
自然派生であり、主体的な創意工夫なわけです。
よって守だけ、型だけで固定してしまうと
今のような「答えを欲しがる人」が増えてしまう。
これが「型にはまった」状態です。
それが楽だから、安住してしまう、と。
ただ、世の中答えがないものが大半ですし
幸せは「型」の中にはありません。
それでも楽な「型」を選んでしまう。
これは現代病なのかもしれませんな。
今の時代は片手で結果が出る時代、
マウスをポン、スマホをポン、チャンネルをポン、です。
下手すれば人との関係性でさえも
「イイネ」をポン、と押せば出来ると思ってる。
そんなバカなことはありません。
それで繋がる関係性って、脆いもんですよ。
だから頭だけでなく、実践によって
体験することにこそ、守の意味がある、
僕はそう思っています。
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これは教育の土台でもあります。
言わば、今ある議論のもっと前の部分です。
だって教育は思想の建造物ですから、
思想が変に偏っていたら、教育も変に偏るわけです。
じゃあ、その変な偏りとは何なのか?というと
なんと、国家の偏在でもあるんですな。
戦後教育とか言うじゃないですか。
あれで国民の意識がゴロっと変わったわけです。
意識が変われば社会は変わり、
やがて無意識的な型を作りだします。
親がそのまま「型」にはまれば、
当然、子供もそうなります。
だから初めは型ありき、なんです。
モラルの欠如とか言われますが
モラルなんて、まさに共通した「型」でしょうが。
よって、「正しい型」を共有した多様性、
これが正しい。
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最近「子供は抑えつけないで自由に」と
言ってますけどね、正しいのは半分以下ですよ。
だってそうでしょ。
頭に入ってない状態で脳が勝手に
「善悪の区別」を作りだせるわけない。
野良ネコみたいに道路に飛び出すし、
高層マンションのベランダに出たりと
危なっかしくて目が離せません。
だから最初は教え込むわけです。
これはやったらダメ、これは危ない、ってね。
「ちゃんと座って食べなさい」とか、
「お行儀よくしなさい」とか、
いちいち、わざわざ、繰り返すんですが、
子供って親の言う事は聞かない反面、
親のやることは、言われなくとも上手に真似します(笑)
つまり「躾」とは頭にいれる知識じゃなくて
身体的な「表現」ということ。
よく「様になる」っていうでしょ。
それって、その人の立ち振る舞いから
形式美を、感じてるわけです。
それは面影として残ります。
子供はそれをベースにして、模倣するんです。
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身体と心は繋がってますから、
精神的なものは、高度化されます。
それがいわゆる「恥」という概念です。
「これをやっちゃー、人としてお終めーよ」
ってやつ、いわゆる応用です。
なぜなら「人として」という型がある、
ただ、肝心の「ヒト」の定義が分からないと
身につきません。
これも人工的でもあり、自然なもの。
だから昔は「恥」を教え込んだんです。
今はどうでしょうな。
どうも自由に負けちゃってる気がします。
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村上春樹の「アンダーグラウンド」には
駅員のインタビューが書かれてましたが、
なるほど、言い得て妙です。
駅員が掃除し、掃き終えた所に
タバコをポイ、と捨てる人がいる。
そんな社会でサリン事件が起きたのは、
不思議な事じゃない、と。
現代はモラルより自我主張が強い、
結局はそこに繋がる気がしますわ。
とまあ、最後は仕事の守とは全く違う
方向に行ってしまいましたが、
まあ、ブログは僕の部屋ってことで、
ひとつご勘弁のほど・・・(笑)
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お初です!! 素敵なブログを書かれてるんですね~最高☆ではでは~( ・д・)/ アメブロ内で仲良くしましょう^^