何をしていいかわらかない状態で、
何かをしなければいけない。
現代はそんな無言の圧力がある。
ペルソナ(仮面)を取って素顔を見せろ、
裸になってみろ、と。
そんなことを夢中で叫んでこそいるが、
本来の自分ってやつは大声で訴えないと
分からないものではないだろう。
なるほど、それだけ今の社会は
そうしないといけない、一種の焦りがある。
「幸せにならなければいけない」という
自己脅迫からくる不幸さと似たようなものだ。
おずおずと叫んでいるのがだんだん
興が乗りだし、しまいには傍若無人に叫び出す。
自意識を制御できないとそうなってしまう。
鞍上人なく鞍下馬なしである。
彼らは間違えやすいから間違うのではない。
多分に、間違えたいから間違うのだ。
そんな高級な暴力は青い鳥ならぬ
青いコミュニティに引き籠りその小さな
真実性を守ろうとするが、そんなもの
常に閉じられた自閉的な自由であるのは言うまでもない。
その自由には棲みつく家がなく取りつく島もない。
さらにその自由の観念を保証してくれるものは
自由の観念しかない、という自覚からの不安によって、
その閉じられたコミュニティが懐疑・批判主義の
温床になるのは、ある意味当然である。
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何をしていいか、わらかない状態で、
何かをしなければいけない。
分からなければ、何もしなくていい。
こっちの方が、よほど健全だ。
※今回は2014年の記事を編集し、再アップしたものです。
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