2016/11/25

高級な暴力













何をしていいかわらかない状態で、
何かをしなければいけない。



現代はそんな無言の圧力がある。
ペルソナ(仮面)を取って素顔を見せろ、
裸になってみろ、と。



そんなことを夢中で叫んでこそいるが、
本来の自分ってやつは大声で訴えないと
分からないものではないだろう。



なるほど、それだけ今の社会は
そうしないといけない、一種の焦りがある。
「幸せにならなければいけない」という
自己脅迫からくる不幸さと似たようなものだ。



おずおずと叫んでいるのがだんだん
興が乗りだし、しまいには傍若無人に叫び出す。
自意識を制御できないとそうなってしまう。
鞍上人なく鞍下馬なしである。



彼らは間違えやすいから間違うのではない。
多分に、間違えたいから間違うのだ。



そんな高級な暴力は青い鳥ならぬ
青いコミュニティに引き籠りその小さな
真実性を守ろうとするが、そんなもの
常に閉じられた自閉的な自由であるのは言うまでもない。




その自由には棲みつく家がなく取りつく島もない。
さらにその自由の観念を保証してくれるものは
自由の観念しかない、という自覚からの不安によって、
その閉じられたコミュニティが懐疑・批判主義の
温床になるのは、ある意味当然である。








何をしていいか、わらかない状態で、
何かをしなければいけない。




分からなければ、何もしなくていい。
こっちの方が、よほど健全だ。





※今回は2014年の記事を編集し、再アップしたものです。




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