2016/11/02

実態としての「わたし」と、関係の中の「わたし」②




前回に続き二回目(゜-゜)
あくまでも個人的な考察です。








社会人としての「わたし」、親としての「わたし」、
娘、息子としての「わたし」、



友人としての「わたし」。
課長の、主任の、経営者のわたし。



学校に通う私、年収600万の私、
子育てをしてる私、介護をしている私。




つまり「~の場所で~の立場にいる時の」
わたし。




こういった関係性に埋め込まれていない、
誰とも繋がっていない「わたし」って、証明が難しいですね。




ただ繋がってないってことは、逆を言えば
あらゆる可能性を持っていると言えます。




創造する天才があるように、探す天才もあり、
書く天才があるように、読む天才もある。



なるほど、ヴァレリーは決して
気休めを言ったわけではないんでしょう。




☞☞☞



端的に言えば実体概念と関係概念の両方を
併せ持っている「わたし」とは「即非」に近いのかもしれません。


故にその精神、心がどのようなものかと
証明こそできないけれど、多分に実態としての
「それ」は成熟した心、裸の心ではないかしらん。



マインドでもスピリットでもない、
ラブでもなければ、エモーションでもない。
そして、そのすべてを含んだものでもない。



「心技体」ってやつもそうでしょう。
世阿弥はそんな独特の感覚を芸術的言語に
したのではないかと、(個人的に)思ってます。






夏目漱石はそれを「則天去私」と呼び、
小林秀雄は「無私」と説いたんですが、
「去私」も「無私」も「無我」も結局は同じ、「無心」のことです。




驚くことに、「わたし」を消し去った時に
初めて「わたし」が顔を出すと、二人は言ってるんですな。



だからこそ小林は自意識を以て
自意識を制しようとしたわけだ。



福田の言葉を借りるのならば
自意識に詰め腹を切らせる」と。
僕の回帰論の目的でもあります(゜-゜)








閑話休題。
多分に、この境地を経験した人は
たくさんいるでしょうね。僕も何度かあります。



例えばそれは必死だったとき、無我夢中だったとき、
熱中・没頭したとき、一心不乱だったとき。。。。




そんな時は関係概念の「わたし」が消え、
実在概念の「わたし」が出てきますよね。
僕の場合、この状態は最短で掴めたりします。




だからこそ、自己中心で行こうかな(゜-゜)と。
今の時代に限らず、知識なんて所詮道具にすぎません。






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