2016/11/01

実態としての「わたし」と、関係の中の「わたし」①





11月一発目の記事(゜-゜)
先日の続きです。









自分で作るという行為自体が
唯一無二の価値になるというのは
ここで何度も書いてるんで端折りますが、



多くの人の価値はそこじゃない。
だから悩んだり苦しんだりしている気がしますね。



例えばそれは金持ちと貧乏、
成功者と、脱落者、美しいと、醜い。



良いと悪い、嘘と本当。。。
それって全部、誰かさんがいて初めて
存在できる価値ですよね。



そうなると必ず背比べをしないといけない、と。
つまり一方の価値を批判することで、一喜一憂しているんですな。



しかし株価と一緒に、幸福度が上がったり
下がったりする人間なんて、一生幸福になれませんよ。



なぜならその幸福度は環境で変わるから。
例えば為替って関係で価値が変動しますが、それ自体の価値なんてどこにもない証拠でしょう、




平均的な幸せなんて幻想ですよ。
平凡と平穏は違うんです。



☞☞☞



てなわけで、今までは相手があって
社会があって「わたし」の価値は証明されていました。



だから、人はどれだけ名誉なことを為したか、
どれだけ有名になったとかを求めてたんですが、
それらは社会化された「関係性の価値」であって
純然たる自分が生きている場所を中心(原点)として
作られたものじゃないですよね。



常識だって社会性されたものでしょう。
我々は社会の関係性から生まれた言葉を
単に借りて話してるだけなんです。



それに気が付かないと、人は簡単に
傲慢な強者になってしまいますね。
その代表が、新聞をはじめとしたメディアでしょう。



左翼だとか、右翼だとか。
あれ全部イデオロギーですよ。
そんなところに「わたし」なんて全く入ってないじゃないですか。



こういった見方をしてしまうの背景は、
個人の生き方が「関係性」によって決定することが多かったから。



それが楽だったし、対立もなかったんです。
従うべき先生がいて、道徳がある。
絶対的な権力を持つおやじがいて、包む母がいる、ってね。



そんな社会に所属し常識の範疇で生きていれば
明確な自分がいるし「わたし」も存在したのだけど、
それはあくまでも社会と常識を前提とした「自分」ですから
社会やら常識やらの「前提」を取っ払った時は
どう生きていけばいいのか分からなくなるんです。




純然たる自分、実態概念としての「じぶん」ってやつは
その立ち位置(前提)では認識できやしません。
今は原点に回帰する時代、個人的にそう思ってます。




ん、長くなりましたな。
次回に続きます(゜゜)か。





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