2016/04/07

答えではなく「応え」





なぜバラバラのものを区別して
そのままに認めるのではなく、
統合、超克する必要があるのか。




まあ、傍からすれば実に面倒なことを
やっているように見えるのかもしれませんが、




ほっといて(笑)





てな突っ込み(?)は置いといて(/ ・)/ヨット




多分に、僕は解りたいんでしょう。
言葉遊びのような感じですが、
分別した理解だけじゃなくて、解り合いたい。




僕はまだできないんですが、
それが普通にできる人が。。。。




臭いセリフになるんですが
「愛のある人」じゃないですかね(。-∀-)ハズカシ




あいしてるぜ、ブラザー。





愛情がないと他人を頭でしか理解できません。
頭で分ければ一応は安心するけれど、
分別である以上、そこには「悩み」が出てきます。






例えば「あんな人だと思っとけばいいよ」と
アドバイスされても、無理な人っていますよね(笑)
というか、ほとんどそうじゃないかしらん。




関心のない人ならまだしも、多少なりとも
その人と交わってしまえば「あんな人」だと
割り切れないのは当然のこと。




(これも言葉遊びのようになるんですが)
「分かる」状態で「解ろうとする」とそうなっちゃう。



ちゃんときちんと分別したのに、
それをまた一緒くたにすることができないでしょ。
逆もまた、できないでしょ。




だから「誰もわかってくれない」、
「理屈は分かるけど解りたくない」
と拒むんじゃないですかね。




いくら言葉を紡いでも心が許さないのは、
心はそんな「答え」なんて求めていない証拠です。






その鍵、違うで




我々が本当に欲しいのは、
理論や言語的正解ではなく「応え」のほうです。




小林が「解答ではなく応答」を求めたのは
そういうことでしょう。




「世界はあったかいな~」と思ったり
「人って優しいな~」と思うのは
そんな言葉を超えた愛情と交わった瞬間です。




その経験は明確な答えは出ないけど
確かな「応え」があります。



手応えを感じるって言うでしょう。
それは見るものじゃなく、感じるものです。




我々は経験を学ぶのではなく、
経験することで、学ぶんです。




☞☞



思春期になるにつれ、子供には
自意識が芽生え、自他の区別をつけだします。



だから今回のような話は
子供に言っても無理・無駄・無視(笑)
「うっせーな」で終わりです。




これは子供なら当たり前の反応です。
ここで親が押さえつけたり抑圧すると、いつか爆発します。



大事なのは自他の区別を付けた後。
旅に出て、住処(すみか)に戻るという回帰です。



極端を知るから中庸が、加減がわかる。
孔子を始め、聖人たちは一回りして戻ってきています。



それをしないままで心の問題を解決しようとすると、
区別したままで「自分らしく」を求めてしまう。



「人は人。俺は俺。
僕は軸があるから関係ねえ」ってね。
社会に合わせる真面目な人ほどそうなります。



そして、それが自意識の目指すゴールです。
多様な個性ではなく、細かい個別化です。




もちろん、それも大事な事なんですが、
それだけで人が「わかる」と思っちゃいけねー。




人間関係が人間観察になった時点で
相手は心を開くことはありません。
少なくとも、僕は開きませんね。



なぜなら「分かること」で自他の境目が
消滅するのではなく、



自他の区別が消え去った時、
はじめて「わかる」という感覚が起こるのですから。






そんな円転回帰、超克の
組織を「解りたい」人はこちらから↓








今回も説明くさかったな~。


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