西洋が「理の文化」に対して、
この国は「道の文化」、理論の究明が目的ではない。
理の文化は物事をすべてバラバラにして
分けて考える分解性を持つ。
人間を細胞レベルにまで分け、
さらに細かくして分子レベルまで分ける。
しかし、そこまで分解しても
もはやそこには肝腎の我々は存在しない。
それは単なる細胞の研究に過ぎない。
反面、道とは分解ではなくて結合である。
多種多様なものはそのままに、その連続性を見る。
家族と言うものはこの道の最小単位だろう。
男女が魂で結ばれたものが結魂(結婚)であり、そこに夫婦の道というものが作られるのだ。
そこで新しい生命が生み出される。
生まれた子供は息子(結子)であり
息女(結女)である。
このように、この国では様々なものを
結合(統合)し、一つの流れとして捉える。
神と人とを生活で結んだ
神ながら(神流れ)の道があり、
神と人とが祈りで結ばれるのが祭である。
そんな祭りを含めた過去と現代の生活を
結んだものが歴史となっている。
結ぶ素材は何か。
継承するからには何かしらの素材とフォームがいる。
0 件のコメント:
コメントを投稿