2016/02/24
人との関係性
例えば、諸君が野原を歩いていて
一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。
見ると、それは菫(すみれ)の花だと解る。
何だ、菫の花か、と思った瞬間に、
諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。
諸君は心の中でお喋りをしたのです。
菫の花という言葉が、諸君の心のうちに
這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。
それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。
菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい
感じを言葉で置き換えてしまうことです。
言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、
そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、
花は諸君に、かって見た事もなかった様な美しさ、
それこそ限りなく明かすでしょう。
これは小林秀雄の「美を求める心」にある
一説なんですが名文ですね。実に素晴らしい。
小林は自分の職業を文士と言ってますが、
多分に彼は芸術家なんでしょう。
スミレの花だけでなく、人であってもそう。
本当にその人を理解するということは
簡単なことじゃありませんね。
前回と似たようなことを言ってしまいますが、
知るための知識がどんなにあったとしても、
本人が理解しようとする感情を持っていなければ
それはまったく意味がないんです。
知識での理解とは分かる(分ける)ことです。
冒頭で言う、心の中のおしゃべりのことです。
しかし、本来の理解とは「解る」、解けること。
これが繋がりってものでしょう。
故に、理解しようとする感情を持つとは、
正しく感じる心を持つことでもある。
僕はそう思っています。
☞☞
正しく感じる心を持っている人とは
しっかりと見定めることが出来る人のことです。
自分の価値観に溺れず、知識に頼らず、
はっきり見定めたものを、自己の中に
整えることができる人です。
そんな人との出会いは静かなもの。
刺激こそ少ないけれど豊かさがある。
僕はそっちを選びますね。
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