こんばんわ、坂口です(゜゜)
前回に続き、二回目です。
さて、このテーマは同じことを
言葉や例を変えながらお伝えしていますが、
もっと深く理解したいという方に
今回、過去記事を掲載しました。
多分、参考になるかと思います(笑)
・退化への道
・たまたま、なんとなく作られたもの
・直観的という事
・対話篇~回帰~
てなわけで「矛盾なんてない」、
始まりはじまり~
さて、今も昔も極楽浄土(彼岸)の到達は
永遠のテーマ、人生のゴールになってますね。
世界は苦しみに溢れてるから
とっとと抜け出したいのでしょうが、
悟るためにとても苦労している人を見ると、
なんだか本末転倒のような気がしてしまいます。
ちなみに仏陀もまた、悟るために様々な
苦行を繰り返していたようで、
(ざっくり話すと)
結果「苦行では悟れない」と思った仏陀は
菩薩樹の下で瞑想に入り、49日後に
悟ることができた、と言われていますね。
しかしなぜ、苦行中に悟れなかったのに
座禅瞑想で悟れたのでしょうか。
(ここからはあくまでも個人的推測ですが)
それは対象を掴もうとする「じぶん(自意識)」が
あったからではないでしょうか。
自意識は主観(観察者)を生み出します。
この時点ですでに対象と「分離」してしまうのです。
悪魔たちが悟りを妨害してきたと言いますが、
実はこの悪魔の正体は「自意識」だった。
個人的にそう思っています。
☞☞☞
調伏(降魔成道)した相手とは
求め続ける「わたし自身」だと仮定すると、
問いもなく、悟ってやろうという意識もなく、
立ち向かう自己が消えることが、悟りかもしれません。
経験してないから断言できませんけどね(゜゜)
ただそうであれば、悟りは一瞬の出来事だったと思います。
弟子に教えているということは、教えを説く
「わたし」が現れている証拠でもありますからね。
失礼、こんなこと素人が書いてたら敵作りますな。
閑話休題
そうなると、自意識は常に敵を作り出している、
悩みの創造者(発生源)と言えるでしょう。
故に、我執となる煩悩を取り除き
四苦八苦から解放(解脱)されなさい、と。
これが仏教の目的でしょうが、
僕は人間にとって飢餓感(悩み)は
大事な生命の糧、捨てるものじゃないと思ってます。
だってそうでしょう。
飢餓感(空腹)を知らないという事は、
満たされること(満足)も同時に分からないじゃないですか。
「永遠の自由に満たされてたまま、生きていきたい!」
これって「不幸になりたい」と言ってるようなものです。
だとすれば、どっちも必要でしょう。
食欲と同様、不足と充足が交互に来るのは
自然な流れであって、循環の一形態ですから。
一つの流れにすれば矛盾は起こらない。
この視点を持つことが「自由自在」です。
☞☞
禅は内なる無分別(無心)と外の分別(自意識)を
同時に持つことを「無分別の分別」と呼びますが、
上記もまた、そういった分別されたものを
分けずに一つにする概念(無分別)だと思ってます。
誰だって根源的な「飢え」があります。
それは我執として手放すものではない。
なぜならそれは「個性」の発見に繋がると
思っているからです。
大半の人が当たり前だと思うところに、
なぜか自分だけ違和感がある。
それってまさに未表現に対する「飢餓感」でしょう。
そこから出発し、表現、具現化
することを仕事にしてる人を見て、
我々は天職とか使命があると思っているのでは。
☞
それは自分だけが知ってます。
てんじょーてんげ、唯我を独尊に仕上げること。
(中心軸にはしないけど)
これが、僕なりの自我肯定です。
「お詫び」
編集途中のまま、ブログをアップしてたようです。
乱雑な記事、失礼しました|д゚)
「お詫び」
編集途中のまま、ブログをアップしてたようです。
乱雑な記事、失礼しました|д゚)
0 件のコメント:
コメントを投稿