前回に続き二回目です。
(一回目はこちら)
人間万事塞翁が馬。
昔の人は、実にうまいことを言ったもんだ。
我々の(外部の)吉凶・禍福は常に
変転するものなので、予測することはできない、
所為はおかげに、おかげは所為になる。
これは後から振り返って初めて、分かるもの。
部分(現在)を切り取り、禍福を決める
決定論者はいつの時代も一定数存在するが、
それは表層的、客観的出来事に対し、
一喜一憂したり、さも悟ったと思い込んでいるだけである。
なるほど、常に自分の頭とのおしゃべりを
やめない人からすれば、予想通りの結果であるが、
物事は直線と曲線という、相反する
二つが補完されることで形成されている以上、
それは一つの動きを切り取った「写真」にすぎないのだ。
これだけ見ても、何も分かりませんよね
前置きが長くなりましたので、
そろそろ本題へと。
☞☞☞
坂口安吾は著書「堕落論」において、
その自意識(堕落)の境地を描いているのだが、
安吾自身も現実(自我)を完全に肯定していたわけではない。
自我がどうしようもなく下らないのは
小林同様、十分に解っていた。
しかし、それと真剣に向き合うこともなく
人間社会は理解することなんかできない。
その自意識の「どうしようもなさ」から
作られているのが、近代のリアルな現実である以上、
その「どうしようもなさ」を真に理解することを
止めて(逃げて)しまえば、その知識にはなんら
価値がないと、安吾は確信していたのだ。
故に自ら堕落し底を眺める、と。
これが安吾の覚悟である。
だからこそ、自意識の摩擦から逃げた小林を
「教祖と変わらないではないか」と批判したのだろう。
まさにそれは、小林と坂口の前提、根幹の
決定的な違いである。
☞☞☞
シモーヌ・ヴェイユの「根を持つこと」とは、
魂の根源からくる生命的欲求であるとし、
アランはその魂は肉体を拒絶している「ナニカ」だと言っている。
小林も同様、肉体五感を伴った
「自意識の基礎」は、基礎として不十分だとした。
自我を中心とした葛藤をいくら深く掘り下げて
言葉に描いたところで、そんな文学は何の役も立たない、と。
小林は現実が観え過ぎていた結果、
現実を見下して(見限って)しまったのだろう。
小林は誤解や批判ついて
誤解されない人間など薬にも毒にもならず、
そういう人は、何か人間の条件において、
欠けているものがある人だ、と言っている。
「毒」になれないものなど「薬」になることもできない、と。
なるほど、我々一般大衆からすれば、
スピリチュアルやら宗教やらにハマっている人たちは
正常ではなく、異常な思想だと思うのだが、
それを盲信する信者からすれば
むしろ一般大衆こそ、狂っているという立場を変えないのは
似たようなものである。
しかし、単に盲信するのでは
バランスの喪失に他ならない。
オウムしかり、テロしかり、独裁政治しかり。
自意識は正気と狂気の間を彷徨ってしまい、
そのベクトルはメビウスの環よろしく反転する。
科学者や哲学者は発狂寸前で
宗教(形而上)へ向かう人が多いのだが、
それは鮮明な理論(正解)を求め、突き詰めた人が
もれなく陥る落とし穴である。
大事なのはそのどちらもを理解した上で
自らの個性によって決定された肯定的「意思」ではないだろうか。
まさに毒を喰らわば皿まで、である。
☞
僕は今いる「あいだ」という位置を
結構気に入っている。
なぜなら、毒にも薬にもならない状態とは
毒も薬もいつでも選べる自分という、可能性の担保なのだから。
よって自我も自己も大肯定はしない。
各自めいめい、好きにすればいいだろう。
そのどちらからも眼を逸らしてしまえば
大事なものが得られることもないと思っているが、
真に大事なものは、意識的に掴もうと思わなくても
勝手に気付くものだという深い確信がある。
深海に素潜りする気はない。
浜辺で貝殻を拾うくらいで(今は)丁度いいのである。
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