こんばんわ、坂口です(゜゜)
これまで日本流を「無の哲学」やバランス加減、
境界線である間の概念などでご紹介しているのですが、
その根底は「和を以て貴しとなす」の精神、
「和の哲学」によって支えられています。
今までの対立二項は「それぞれ別なもの」として存在し、
お互いが認め合うことはありませんでした。
例えば、内部の志向性は宗教や
哲学といった「みえないもの」へ向かうのに対し、
外的な志向性は政治や経営、組織などの
「みえるもの」へと向かって行く性質を持つのですが、
現在、どちらも必要であることが分かってますよね。
unreveは止揚(正・反・合)によって
内と外の全てを活かす方法を取ってまして、
その源泉(根幹)が「内部派生」であることから
リゾーム派生式の超克と呼んでいます。
当初、それがビジネスに応用可能であるか
疑問でしたが、そうではないことが分かりました。
むしろこの方法こそ、この国の
自然な形だと再確認したのです。
今日はそんな「和」について。
さて、この国では様々な宗教や思想を
編集し、受け入れ、調和させた歴史があります。
受け入れる際、いったん咀嚼し、編集することで
最適な状態に変容させ、共存を可能とする。
この「最適な状態」の構築こそ、和の哲学であり、
この国に古来から続いている精神だといえるでしょう。
それが「随神(かんながら)の道」である
神道からの派生ではないか、と思っています。
それぞれが絶対を唱え、譲らなければ
対立は必然。比較によって優劣も生まれます。
この国に入ってきた仏教などがそうでしょう。
浄土宗は阿弥陀如来、法華宗は釈迦如来を最上位にしています。
同じ仏教であったとしても、その違いによって
教えや思想が違っている、これでは混乱してしまいますよね。
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反面、神道は違います。
明治以降に作られた国家神道と違い、
古来から日本に根付いていた神道に
差別や競争はありません。
そもそも神道には教義がありません。
さらに言えば開祖も宗祖も「何にもない」。
逆に、だからこそ柔軟に変化できるのです。
仏教との対立があった際も
社会に受け入れやすい形へと変化しました。
これが有名な「本地垂迹説」です。
この絶妙な論理によって、神と仏が
それぞれの要素を習合し、現在に至っている。
明治になると「神仏分離令」により、
神社から仏教的な要素は排除されたり、
天皇を絶対とした「国家神道」が作られたのですが、
それ以前の江戸時代までは神仏習合、
ぶつかり合うことなく、混じり合っていたんですね。
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その精神は今の時代にも見て取れます。
初詣から始まり、節分に雛祭り、
祭りでは神輿を担ぎながらも
クリスマスを祝い、ハロウィンで騒ぎ、
除夜の鐘を聞く。
これが外国人には理解できないのですが、
この国ではそれが「当たり前」なんですね。
そんな「当たり前のこと」にこそ、価値がある。
「矛盾」というものを同一してきた
懐の深い歴史がある日本、
世界一長く続いている国家、日本。
今のような時代だからこそ、
この国の持っている精神が
求められているのではないでしょうか。
ん。
長くなったので、次回に続きます(゜゜)
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