2015/07/29
対話編 ~回帰~
「このブログもそろそろ本題に入ってきたね」
「ん。神道を書いたからな」
「西洋の哲学や宗教からの仏教、そして禅宗。
それを網羅しないと堂々と書けなかったんでしょ」
「じゃないと、宗教と誤解されるから」
「君なりの殺仏殺祖なわけだ」
「弥栄モデルは便利だよ。振り出しに戻ってるように
見えても、世界観が全く違うことが図で分かる」
「汎用性はあるの?」
「じゃあ今日は別のやつを回帰してみっか」
「前回、50点だったものを覚えてるか?」
「えっと・・・精神から見ると
人種も性別も違いがないってやつ?」
「そう。全ては一つなどのワンネス主義は
高次元なセリフに見えるが、片手落ちなのだ」
「平等主義は間違ってるってこと?」
「平等の反対は何だ」
「差別。君は区別って呼んでるみたいだけど」
「何かを分けることは一見間違いのようだが
それは優劣としての「差」をつけた場合だ。
実相としての観点から見れば分別は正しく、平等も正しい」
「ん。どゆこと?」
「一即多、多即一。つまり
差別、即、平等ってこと」
「?」
「例えば山は山、海は海として見る。
これが区別だろ」
「うん」
「これが平等、高い次元から見てると「思ってる人」は
山も川も海も、全てが一つの在り様だと説く」
「あー、宇宙視点」
「これは万物一如、梵我一如といって
自他を一体化した人が到達した境地のことだ」
「それが悟り、お釈迦さんの空だね」
「すると当然、現世は幻であって、
本当の世界は一つなんだ~、ってオチになるわな」
「それが間違いだってこと?バチ当るよ」
「それを理屈で説明されても
何でもかんでも平等だと「心から」思えないだろ。
仮にそれが科学的に証明されたとしても」
「確かに、ほとんどの人は
その境地を経験してないからね」
「さらに言えば、その超マクロ視点の境地は
極から極へシフトしただけに過ぎない。
弥栄モデルで言えば、それは志向性じゃない」
「だから片手落ちだって言ったの?
ワンネスや無我の境地がゴールじゃないんだ」
「僕はそう思うね。根幹ベースとしては
正しいと思うけど、根だけの木なんて存在しない」
「そういや、悟ったって言ってる人ほど
差別や区別、物質世界である「枝葉」を否定するもんね」
「この否定が曲者なのだ。全否定するとどうなる?」
「あーね、浮世から離れちゃう」
「スピリチュアル、いや「ホリスティック」な側面に
傾倒しすぎると、今度は逆に現実逃避してしまうのだ。
というか、現実の方が逃避するというべきか」
「物質世界を正しく見れなくなる、ってことね。
確かに、お金はエネルギーだって言われてもわからないもの」
「素朴な感覚だよ。我々が肉体である五感覚を
持っている以上、金は紙か金属にしか見えない」
「六感だけで生活してるわけじゃないしね」
「確かに精神世界は真理であるかもしれない。
しかし我々はこうやって多様な状態の中、
物質世界で生きてるわけだろ。」
「うん、しかも全員が全然違う環境で生まれてる。」
「つまりその現実もまた、真理の一側面なのだ。
この相反する矛盾が同一して存在している世界に
我々はいるんじゃないかな」
「現実的なものを全部捨ててしまったら、
現実的な対応なんて、できっこないもんね」
「山奥で一人暮らすなら話は別だけど。
ただ、守護霊やなんとか星人が老後の面倒を
ぜんぶ見てくれるとは思わないね」
「コインの表だけ、悟った精神だけじゃ
飯は食えない、ってことだ」
「だから神道は目に見える自然派生の法則を
信仰し、生活に活かしているんだろうね」
☞☞☞
「君がジェンダー論を否定してるのも似たようなもの?」
「そう。確かに人間として見れば男も女も同じだよ。
人種だってそう、違いなんてない。」
「でも現実を見れば違いは明らかだよね」
「そう、この絶対的な構造の違いを
無視して、何でもかんでもごちゃまぜにするとおかしくなる。
動物は動物、植物は植物として観ないと」
「でも、理想と現実の差がありすぎるから
そっち側を求めるんでしょ。ある意味、仕方ないよ」
「理想と現実の両方を捨てず、葛藤した経験が
多い人を、僕は人格者だと思ってる」
「そうなると教祖は逆だね。「全ては一つだ」って
片方ばかり説いてるから」
「どっちか一つを語るのは誰だってできるよ。
金だけを求める経営者なんて、ごまんといる。」
「そんな人にはなりたくないね。
実はね、悟ったっていう人に限って
変に飾り立ててるから嫌いなんだ」
「本当に両方の世界を生きている人は
逆に普通の生活に溶け込んでいるんじゃないかな」
「十牛図の最後の絵の意味だね」
「まさに究極の一般ピープル。
できればここを目指したいもんだね」
☞☞
「あー、葛藤とか悩みなんて早く卒業したい」
「ふむ。
そういや、グッさんという珍しい奴がいてな」
「・・・・・・」
「例えばドラクエとかあるだろ?
敵を倒して、レベル上げるやつ」
「・・・・・・・」
「普通、ちょっとレベルが上がったら
どんどん先にいくのだけれど、こいつの場合は
かなりレベルが上がるまで先に進まないのだ」
「・・・・・・・で?」
「その理由が、毎回敵と苦戦しながら
ゲームしたくないんだと」
「・・・・・・」
「それより立ち止まってどんどんレベル上げて
楽勝のまま、サクサク進みたいようだ」
「・・・・・・いいじゃん」
「ただ、こいつの場合はゲームだけに限らず
人生においても、そうしたいらしい」
「・・・・・・・・」
「年とってつまらんことで悩みたくないから
若いときに酸いも甘いも全部味わってしまおうと思ってる。
どうも、理性と距離を置きたいみたいだな」
「・・・・・・」
「な、変な奴もいるだろ。怠け者だからこそ
怠ける土台を必死に作ってるのだ」
「・・・・・これ、カットやで」
2015/07/28
お祭り日記 後編
昨日に引き続き、後編です(´▽`)
暗くなるにつれ、どんどん人が集まってきました。
千灯明は20時から、あと少しです。
浴衣コンテストがあってたからか、
浴衣の女性がたくさんいましたね。
風情があります(^-^)
☞☞
さて、20時になりました。
いきなり辺りの照明がすべて消えます。
あまりにも突然なので、初めての人は驚いてます(゜゜)ソラソーダ
すると、遠くから少しずつ明りが。。。。
来た来た~
この祭りの面白いところは
一般の人も参加できること、
ロウソクを自分たちで
付けることができるんですよ~
そんなわけで、あっという間に橋全体が光り出します。
写真じゃうまく伝わらないんですが、
池に明りが映り、幻想的な世界になります。
これは9月のやつですね
広場でやってる盆踊りも、雰囲気を
壊さないためか明りが「ブルー」です。
こんな光景、なかなか見れません(笑)
お勧めの夏祭りです、みなさんも一度
来てみてはいかがでしょうか(^-^)
ではでは~
2015/07/27
お祭り日記 前編
こんばんわ。
祭り男です。
ちなみに撮影時刻18時過ぎです。
明るいですね(゜゜)
先週末に、太宰府の千灯明(せんとうみょう)に
行ってきましたぜ(´▽`)
千灯明は9月にもあるんですが、
今月の千灯明は夏祭りと一緒に
開催されているんですよ~。
開催場所である太鼓橋にはすでにロウソクが。
とりあえず、日が暮れるまで時間つぶしです。
☞☞
まずはお参り。
本堂には氷像が飾ってありました。
からの、梅が枝餅食べ歩き。
25日はよもぎになります。
ちなみに、この祭りでは一般的な出店がありません。
商工会の青年部が中心となって色んなブースを作ってます。
だからでしょうか、ノスタルジックな祭りを味わえます。
こういうの、好き(・ω・)ソボク
屋台でホルモンとネギ塩タンを購入。
さすが、酒のつまみが分かってらっしゃる(笑)
あと、太宰府名物「揚子江」の肉まん。
デカ~
車で来たのでノンアルで我慢です(´・ω・`)
前日飲み過ぎたからね
そうこうしている間に、日が暮れてきました。
えっと・・・
次回も・・・・この流れでいいですか|д゚)?
2015/07/24
和の哲学
こんばんわ、坂口です(゜゜)
これまで日本流を「無の哲学」やバランス加減、
境界線である間の概念などでご紹介しているのですが、
その根底は「和を以て貴しとなす」の精神、
「和の哲学」によって支えられています。
今までの対立二項は「それぞれ別なもの」として存在し、
お互いが認め合うことはありませんでした。
例えば、内部の志向性は宗教や
哲学といった「みえないもの」へ向かうのに対し、
外的な志向性は政治や経営、組織などの
「みえるもの」へと向かって行く性質を持つのですが、
現在、どちらも必要であることが分かってますよね。
unreveは止揚(正・反・合)によって
内と外の全てを活かす方法を取ってまして、
その源泉(根幹)が「内部派生」であることから
リゾーム派生式の超克と呼んでいます。
当初、それがビジネスに応用可能であるか
疑問でしたが、そうではないことが分かりました。
むしろこの方法こそ、この国の
自然な形だと再確認したのです。
今日はそんな「和」について。
さて、この国では様々な宗教や思想を
編集し、受け入れ、調和させた歴史があります。
受け入れる際、いったん咀嚼し、編集することで
最適な状態に変容させ、共存を可能とする。
この「最適な状態」の構築こそ、和の哲学であり、
この国に古来から続いている精神だといえるでしょう。
それが「随神(かんながら)の道」である
神道からの派生ではないか、と思っています。
それぞれが絶対を唱え、譲らなければ
対立は必然。比較によって優劣も生まれます。
この国に入ってきた仏教などがそうでしょう。
浄土宗は阿弥陀如来、法華宗は釈迦如来を最上位にしています。
同じ仏教であったとしても、その違いによって
教えや思想が違っている、これでは混乱してしまいますよね。
☞☞
反面、神道は違います。
明治以降に作られた国家神道と違い、
古来から日本に根付いていた神道に
差別や競争はありません。
そもそも神道には教義がありません。
さらに言えば開祖も宗祖も「何にもない」。
逆に、だからこそ柔軟に変化できるのです。
仏教との対立があった際も
社会に受け入れやすい形へと変化しました。
これが有名な「本地垂迹説」です。
この絶妙な論理によって、神と仏が
それぞれの要素を習合し、現在に至っている。
明治になると「神仏分離令」により、
神社から仏教的な要素は排除されたり、
天皇を絶対とした「国家神道」が作られたのですが、
それ以前の江戸時代までは神仏習合、
ぶつかり合うことなく、混じり合っていたんですね。
☞☞
その精神は今の時代にも見て取れます。
初詣から始まり、節分に雛祭り、
祭りでは神輿を担ぎながらも
クリスマスを祝い、ハロウィンで騒ぎ、
除夜の鐘を聞く。
これが外国人には理解できないのですが、
この国ではそれが「当たり前」なんですね。
そんな「当たり前のこと」にこそ、価値がある。
「矛盾」というものを同一してきた
懐の深い歴史がある日本、
世界一長く続いている国家、日本。
今のような時代だからこそ、
この国の持っている精神が
求められているのではないでしょうか。
ん。
長くなったので、次回に続きます(゜゜)
2015/07/23
対話編 ~絶対矛盾~
「・・・・・・・ふむ」
「ん、どうしたの?トトロみたいな顔して」
「いやね、物事とは一方向だけでは
わからないものだな、と」
「あー。最近、色々あってるからね」
「しかも本質を飛び越えた情報が
広がっている感もあるから、よけいタチが悪い」
「それで判断すると誤解するね」
「個人から商品から思想まで、あらゆるものが情報化された。
そう考えると、今はレッテルを貼りやすい時代だな」
「食べログもイイネもそうだね、
他人にとってはグッドかもしんないけど
自分からすればバッドかもしれないもん」
「グッドの場合は良いよ。問題は
バッドの評価がずっと残るってことだ。
これはね、とても怖いことだと思うよ」
「意図的に悪く書く人もいるみたいだね」
「小林秀雄は批判には愛が必要だと言ってるが、
今の批判は排他的なものばかりだから」
「一時期、君はすごかったね。
昔のブログとか、記事が殺気立ってる笑」
「陰で批判されたり、間接的に言われると
こっちは何もできないからな」
「いいんじゃないの、離れたわけだし」
☞☞
「あの時代は実際に会って批判してたから、
リスペクトに近い感覚もあっただろうね」
「そう、今のアンチテーゼは一方通行なのだ。
正論っぽく見えたとしても、肝心の相手への関心がない」
「多分、感情抜きで白黒ハッキリさせたいし、
逆に見る側もハッキリしてもらいたいんじゃない?」
「そりゃ単なる情報の奴隷だ。
損得勘定と弁だけが達者になる」
「奴隷はちょっと言い過ぎだよ」
「飲食に限らず、まともな人は他人の付けた
レッテルや評価は気にしない。まず自分の目で確かめる」
レッテルや評価は気にしない。まず自分の目で確かめる」
「そうじゃない人は?」
「それをそのまま鵜呑みにする。
これがいわゆる大衆心理、というものだ」
これがいわゆる大衆心理、というものだ」
「なるほどね」
「ちなみに、職場環境が悪い会社は
こういったレッテルの貼り合いばっかりやってる」
「あーね、確かにおばちゃん化している(笑)」
「ネットで流れてる情報もそうだけど、
他人の評価で分かった気になるなんて、大間違いだよ」
☞☞
「これはね、意外に深い問題なのだ」
「自分がそう思ってるだけじゃない?」
「いーや。なぜなら、我々は何かを頼りにし、
あてにしなければ生きていくことができないからだ」
「何かを信じないと生きれない、ってこと?」
「名誉も、地位も、金もそうだろ。
仮にそれを信じてない人だって、
この自分の体が自分だってことは信じてるはずだ」
「さすがに、その前提がないとヤバイね」
「もし、その前提が崩れたらどうなる?」
「そりゃ、困る」
「そう、まさに苦しみや悩みとは、こういった
信じていたものに裏切られた時に起こるのだ」
「ん、どゆこと?」
「たとえば、病気になるということは
健康だと信じていたのに、そうじゃなくなるってことだ」
「うん」
「人間関係で苦しむのも、正しいと
信じていた価値観が他人によって壊されるからだ」
「アイデンティティを否定する人いるからね」
「裏切られることで信じる対象が分からなくなる、
中には、自分で決定できなくなる人も出てくるだろう」
「まあ、内容によりけりだけどね」
「これが外部に絶対性を求める根幹なのだ」
「裏切らないものを求める心か・・・
でも、誰だってそうじゃないの?」
「そう、しかし世界は矛盾だらけ。
この相反する実在によって、苦しみは消えないのだ」
「確かに、世界だけじゃなくて
僕の内面も矛盾だらけだしね」
「正しいと思って発言していると、ある人から
それを否定される、逆もまたしかり」
「そう考えると、矛盾がない方がおかしいね」
「90点、十人十色、時代や場所によって
信じる対象が異なるということは、矛盾が実相だと言える」
「その矛盾律の中から主体的に
選ぶ自己がないと、死に至る病にかかってしまうんだね」
「主体的実存、キルケゴールか」
「結局自分が「どうするか」が大事だってことでしょ」
「いや、そこから先がある」
「何?」
「それが長くなるし、まとまらないんだな・・・」
「じゃあ、いつもの感じで」
「いや、このテーマは次回じゃなくて、
またいつか」
タイタニック現実主義
タイタニック号は1912年、イギリスから
ニューヨークに向かう途中、濃霧で見えなかった
大氷山に衝突し、沈没した豪華客船として有名ですね。
今でこそ、我々はこの事故の原因を知ることが
できますが、当時の乗客や船員は誰も気づきませんでした。
航海中、船旅を楽しんでいる乗客は
ダンスホールで踊り、豪華な食事を楽しみ、
機関室でメンテナンスを行っている機関士にとっては、
何事もなく順調な船旅です。料理長は明日のメニューを考えていたでしょう。
船に乗り合わせているそれぞれの人が
それぞれの現実を生きていたのですが、
船から離れて見た場合、その現実観は全く違っていたのです。
目前には氷山が待ち構えているけれど、
濃霧で先は全く見えません。
このまま行けば衝突。
これが「本来の現実」だったんですね。
政治哲学者であるダグラス・ラミス氏は
目前の現実しか見ようとしない態度を
「タイタニック現実主義」と名付けていますが、
この「現実離れした現実主義」に
陥ってしまう可能性は誰にでもあるような気がします。
今「どこにいて」、
「どの現実」を見ているか。
中にいるか、それとも上空から眺めているのか。
自分で判断するのは難しいですね。
☞☞
最近、世間が騒がしい。
情報化社会である以上、嫌でも入ってくるのですが、
その現実とはまた別の現実を感じてしまう、今日この頃です。
2015/07/21
お祭り日記 後編
昨日に引き続き、後編です(´▽`)
小倉祇園太鼓は
夜になると街中に出るところと、
一つの場所で打ち続けるところがありまして、
街中が太鼓の音に包まれます。
出ない組(?)は対バンみたいに競い合います。
これがまた楽しい♪
中には神輿に乗り上がるところもあったり。
やりたい放題のちょい手前な感じが好きです(笑)
☞☞
お腹も空いてきたので夕飯へ~
小倉に来た時によく行く店「天穂」さん。
希少な雌牛の小倉牛が頂けまして、
一人でも気軽に行ける、数少ない焼き肉店です。
まずは名物の焼きシャブ~
さっと炙った後、卵につけて頂きます。
口に入れた途端、すぐいなくなっちゃいます。
からの定番メニュー。
こちらのタンとイチボは特にお勧め
ご馳走様でした(-∧-)
☞☞
店を出たら、すぐ近くの路地裏で行列が。
調べたら、小倉の有名ラーメン店
「まるいち」さんに並んでるようです。
・・・・・・まだ入る(; ・`д・´)
ということで、ハシゴ決定。
これも一人だからできることですね(笑)
定番の「まるいちラーメン」を注文。
麺が太麺と細麺から選べるって、珍し。
以前食べた「ラーメン工房 龍」さんも
美味しかったんですけど、こっちが僕好みです。
よ、余は満腹じゃ(;・∀・)ゲフッ
あー楽しかった。
てなわけで、
また来年お会いしましょう
see you♪
おまけ
「今年のベストショット」の一部をご紹介
※写真については、話ができる時には撮影とブログへの掲載の了解をいただくように務めましたが、それができていない場合もあります。 もし写っている方で、ご都合の悪い方はメッセージをお願いいたします。すぐに対処させていただきます。
2015/07/20
お祭り日記 前編
先日は小倉に行ってきましたぜ(´▽`)
行くとき、小雨が降ってたけど、
着いたらごらんのように
晴れま!
晴れ男、花見の汚名献上(´;ω;`)ブワ
☞☞
夕方までは小倉城あたりでやってるんですが、
楽しいのはそれからなのだ。
それまで、あちこちウロウロ。
基本、屋台で食事を済ませない僕が
唯一、もとい二つだけ食べるのがあります。
それがこちら。
冷やしパナポ!
うんめえええ(*´Д`)
それとトウモコロシ!
歯の隙間にグイグイ入ってくるけどね!
とかやってたら、日も暮れてきました。
えっと・・・
次回も・・・・この流れでいいですか|д゚)?