こんばんわ、坂口です(゜゜)
今日は歴史についての小噺でも。
前世を知りたい、過去世を知りたいという
人が意外に多いようです。
当然、この論理は輪廻転生というものが
前提としてなければ成立しない以上、
遊び心で捉えるくらいがちょうど良いのでしょう。
無になるのか、それとも消えることなく
輪廻する連続体としての有なのか。
本来のそれは、死というものを主観的に経験しないと
分かることはありません。
誰だって生きている以上、死について語れない。
臨死体験とか、死後の世界というものが
脳内で起こった現象なのか、そうじゃないのか
ハッキリしない以上、断言できるものじゃありませんね。
「子供は生まれてくる時、親を選んでいる」とか
言われてるようですけどね、これほど無責任な発言はない。
なぜ無責任かといえば
この「生」という偶然を「あなた」が
必然と捉えようとする解釈だから。
この考えがカーストを作ったわけでしょう。
それと同じパターンになってるわけだ。
個人的な物語を真理だと思う心性。
この物語というものの「語り」は「騙り」に他ならない。
以前「私の前世はどこぞの王国の貴族だった」と
いう人がいたんですが、
それがどうした、と。
それより現実の歴史の方がよほど大事です。
僕であれば、40年近い歴史の素材があって、
それによって、自分というものを知ることができる。
「今の」自分を見て自分を知ろうと思っても、
都合よく解釈するか、卑下するかの二択でしょう。
☞☞
過去を知るとは「心性」を知ること。
先ほどの例でいえば、そう捉えようとする「こころ」を
理解することです。
それは証拠を知ることではない。
そんなもの、考古学者のやることです。
古墳があった、文明の跡があった。
いついつ年に何々が起きた、と。
ただ、それらを集めても過去を知ったことにならない。
今で例えるなら、あの発明をした、ああいった発言をした、
あのようなビジネスを立ち上げた、を
知るようなものです。
そんな客観的証拠をかき集めたとしても、
その人の心性を理解したとは言えないわけだ。
そこに自分の主観的「解釈」があって
初めて、関心ごととして生き返る。
もしその人の発言に嫌いな部分があるとすれば、
なるほど、自分の中にもそういった部分が
あるのだろう、と知ることができますよね。
だから教師だけでなく、
反面教師も必要なんでしょう。
☞☞
日本流を理解する、ということもそう。
歴史的な証拠を知っても、何もわかりません。
前回書いたように、根底を流れる
純粋持続、精神を知らないといけない。
それは子供の頃の自分を調べるのと
まったく同じこと、単にその時間が長いか短いかの
違いに過ぎません。
例えば、昨日の自分というものは過去です。
今現在、どこにもありゃしない。
1秒前、1時間前、1年前、
どこを切り取るか、どのような切り取り方をするか。
そんなものは自由です。
ただ、それを「決定している」のはまさに
客観的に眺めようと思う主観であり自力以外にはない。
そこに反省や内省の本来がある。
過去が眺める今の「主観」が、即、客観になってるでしょう。
「あの時はあの人の影響を受けてたな」と思えば、
その時点で自分を客観的に知ったことになるわけだ。
つまり過去が今の自分を見ながらも、今の自分が
過去を見るという、二重の認識がある。
これって、当たり前のようですごく不思議です。
では、変わらない「ありのままのじぶん」とは、どこにあるか?
グラグラしてくるでしょう。
自我中心なんて、そんなもんです。
そんな移り気で、影響されやすく、
飽きやすい自分だからこそ、
変わらない、という「思い」を言葉に出す。
そうじゃないですか。
☞☞
絶対的な客観、客体などありゃしない。
常に人生は主観的客観、主客未分(自己中心)でしょう。
「みんなの世界は一つ!ワンネス!」。
「これが正義で、これが悪だ!」
そんなもの、犬に噛まれた経験のある人間が捉える
「犬の定義」と似たようなもの、嘘をつけだな。
本質を考えるとは、この「犬そのもの」について、
考えることに他ならない。
そんな客観的証拠をかき集めたとしても、
その人の心性を理解したとは言えないわけだ。
そこに自分の主観的「解釈」があって
初めて、関心ごととして生き返る。
もしその人の発言に嫌いな部分があるとすれば、
なるほど、自分の中にもそういった部分が
あるのだろう、と知ることができますよね。
だから教師だけでなく、
反面教師も必要なんでしょう。
☞☞
日本流を理解する、ということもそう。
歴史的な証拠を知っても、何もわかりません。
前回書いたように、根底を流れる
純粋持続、精神を知らないといけない。
それは子供の頃の自分を調べるのと
まったく同じこと、単にその時間が長いか短いかの
違いに過ぎません。
例えば、昨日の自分というものは過去です。
今現在、どこにもありゃしない。
1秒前、1時間前、1年前、
どこを切り取るか、どのような切り取り方をするか。
そんなものは自由です。
ただ、それを「決定している」のはまさに
客観的に眺めようと思う主観であり自力以外にはない。
そこに反省や内省の本来がある。
過去が眺める今の「主観」が、即、客観になってるでしょう。
「あの時はあの人の影響を受けてたな」と思えば、
その時点で自分を客観的に知ったことになるわけだ。
つまり過去が今の自分を見ながらも、今の自分が
過去を見るという、二重の認識がある。
これって、当たり前のようですごく不思議です。
では、変わらない「ありのままのじぶん」とは、どこにあるか?
グラグラしてくるでしょう。
自我中心なんて、そんなもんです。
そんな移り気で、影響されやすく、
飽きやすい自分だからこそ、
変わらない、という「思い」を言葉に出す。
そうじゃないですか。
☞☞
絶対的な客観、客体などありゃしない。
常に人生は主観的客観、主客未分(自己中心)でしょう。
「みんなの世界は一つ!ワンネス!」。
「これが正義で、これが悪だ!」
そんなもの、犬に噛まれた経験のある人間が捉える
「犬の定義」と似たようなもの、嘘をつけだな。
本質を考えるとは、この「犬そのもの」について、
考えることに他ならない。
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