2015/06/19

じぶんの歴史とは



こんばんわ、坂口です(゜゜)
今日は歴史についての小噺でも。










前世を知りたい、過去世を知りたいという
人が意外に多いようです。



当然、この論理は輪廻転生というものが
前提としてなければ成立しない以上、
遊び心で捉えるくらいがちょうど良いのでしょう。



無になるのか、それとも消えることなく
輪廻する連続体としての有なのか。



本来のそれは、死というものを主観的に経験しないと
分かることはありません。



誰だって生きている以上、死について語れない。



臨死体験とか、死後の世界というものが
脳内で起こった現象なのか、そうじゃないのか
ハッキリしない以上、断言できるものじゃありませんね。



「子供は生まれてくる時、親を選んでいる」とか
言われてるようですけどね、これほど無責任な発言はない。



なぜ無責任かといえば
この「生」という偶然を「あなた」が
必然と捉えようとする解釈だから。



この考えがカーストを作ったわけでしょう。
それと同じパターンになってるわけだ。



個人的な物語を真理だと思う心性。
この物語というものの「語り」は「騙り」に他ならない。



以前「私の前世はどこぞの王国の貴族だった」と
いう人がいたんですが、




それがどうした、と。
それより現実の歴史の方がよほど大事です。



僕であれば、40年近い歴史の素材があって、
それによって、自分というものを知ることができる。



「今の」自分を見て自分を知ろうと思っても、
都合よく解釈するか、卑下するかの二択でしょう。



☞☞





過去を知るとは「心性」を知ること。
先ほどの例でいえば、そう捉えようとする「こころ」を
理解することです。



それは証拠を知ることではない。
そんなもの、考古学者のやることです。



古墳があった、文明の跡があった。
いついつ年に何々が起きた、と。


ただ、それらを集めても過去を知ったことにならない。



今で例えるなら、あの発明をした、ああいった発言をした、
あのようなビジネスを立ち上げた、を
知るようなものです。



そんな客観的証拠をかき集めたとしても、
その人の心性を理解したとは言えないわけだ。




そこに自分の主観的「解釈」があって
初めて、関心ごととして生き返る。




もしその人の発言に嫌いな部分があるとすれば、
なるほど、自分の中にもそういった部分が
あるのだろう、と知ることができますよね。




だから教師だけでなく、
反面教師も必要なんでしょう。



☞☞



日本流を理解する、ということもそう。
歴史的な証拠を知っても、何もわかりません。



前回書いたように、根底を流れる
純粋持続、精神を知らないといけない。




それは子供の頃の自分を調べるのと
まったく同じこと、単にその時間が長いか短いかの
違いに過ぎません。




例えば、昨日の自分というものは過去です。
今現在、どこにもありゃしない。



1秒前、1時間前、1年前、
どこを切り取るか、どのような切り取り方をするか。
そんなものは自由です。



ただ、それを「決定している」のはまさに
客観的に眺めようと思う主観であり自力以外にはない。



そこに反省や内省の本来がある。
過去が眺める今の「主観」が、即、客観になってるでしょう。




「あの時はあの人の影響を受けてたな」と思えば、
その時点で自分を客観的に知ったことになるわけだ。




つまり過去が今の自分を見ながらも、今の自分が
過去を見るという、二重の認識がある。




これって、当たり前のようですごく不思議です。
では、変わらない「ありのままのじぶん」とは、どこにあるか?



グラグラしてくるでしょう。
自我中心なんて、そんなもんです。




そんな移り気で、影響されやすく、
飽きやすい自分だからこそ、



変わらない、という「思い」を言葉に出す。
そうじゃないですか。




☞☞



絶対的な客観、客体などありゃしない。
常に人生は主観的客観、主客未分(自己中心)でしょう。




「みんなの世界は一つ!ワンネス!」。
「これが正義で、これが悪だ!」




そんなもの、犬に噛まれた経験のある人間が捉える
「犬の定義」と似たようなもの、嘘をつけだな。




本質を考えるとは、この「犬そのもの」について、
考えることに他ならない。






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